第二章
『家に戻る』8(下)話





 参考書を例にとってみても、そうだと断言できる。
 美咲が入院中、凉の体の中にいるのが、凉自身ではない。と彼なりに判断し、凉に興味を失くした後、病院内でも寸暇を惜しんで勉強するようになっていた事があった。
 その時に、手にしていたのが、机の上に置いてある、『これだけは押さえておこう英文法』や、『化学式のまとめ』だったのだ。
 ロープに掛っている、膝に穴のあいた、よれよれのGパンも、美咲にとって馴染みの深いものだった。
 ショックが遠ざかってから、次にある事が思い浮かぶ。
(耕太郎・・・。こんな所に住んでいたんだ・・。)
 心の中でつぶやきながら、同時にむくむくと、怒りがこみあげてくる。
 こんな異臭の漂う、湿気の多い所にすんでいて、健康にいいわけがない。
 いつも咳をしていた耕太郎の姿が思い浮かぶ。
(あの咳は、ここからきているんだ。・・・酷すぎる!なぜ、こーたろーをこんな所に住まわせているの?)
 怒りで震えてくる体を、深呼吸させて落ち着かせ、
(許せない!どんな理由があったとしても、彼をこんな所に住まわせて、涼しい顔をしている河田家の面々を・・。)
 怒りで震えてくる体を、深呼吸させて落ち着かせ、
(どうしたら、こーたろーを、ここから出すことが出来るだろう・・。)
 と、心の中でつぶやき、必死に考え込む。しかし、昨日ここにやってきたばかりの 美咲には、いい案が浮かぶはずもなく、ここにジッとしていて誰かに見つかってしまうと、言い訳するのも大変だ。
(とりあえずは、自分の部屋に帰ろう・・・。)
 と、思った美咲は引き戸に手をかける。
 納屋の中の、湿った埃っぽい、極めて人が住むにふさわしくない様子を、この目に焼き付けておこうと、美咲は目を見開いて凝視してから、戸をしめたのだった。
 それからあわてて屋敷に戻ると、従業員に即座に見つかった美咲は、使用人頭の田尻に、勝手に出歩かないように。と注意がある。
 柔らかな調子ではあるものの、問答無用な圧迫感を持って、美咲をうなずかせるのだった。
 美咲は、すぐさま三階のバスルームに連れてゆかれた。そして、温かいお湯に浸からされ、体が温まった頃に、お風呂から出ると、水無月の下半身に重点をおかれたマッサージが始まった。
「散歩に行ってたんですって?」
 マッサージをしながら、水無月が(やったわね。)とばかりに聞いて来るので、
「そうなんですよ。することなかったから、屋敷内をグルッと回って、その後庭をね・・。」
 と答える美咲に、水無月はウンウンうなづき、
「ここの庭は広いものですものね。迷子になりませんでした?」
 と、聞いてくる。
「奥までは入っていないから・・。」
 と、ぼそぼそ声になる美咲に、水無月は
「私もいまだに屋敷から玄関に出ている小道と、その周囲しか散策したことないです。なんだかこの家の庭って、森みたいな感じするでしょ。普通の庭じゃないみたいで・・。あっ。またいらない事言っちゃいました?」
 と、小さく舌を出して言う。
「あの、水無月さん。この屋敷のすぐそばに、古い小屋があるのを知っていますか?」
 と、思わずたたみかけてゆくと、彼女はキョトンとした顔をして、
「小屋?」
 と聞いてくるのを、美咲は
「そうなんです。朽ちかけた小屋で、ひどい場所なんですよ。そんな場所にいとこが、住まわされているみたいなんです・・・。」
 言っているうちに、みるみる水無月が困った顔になってゆくのに、自然言葉が小さくなってしまう。
「・・・どうにかならないかなって思うんですけれど・・・。」
 ぼそぼそ声になってしまった美咲に、水無月は申し訳ない表情になって、
「・・・・ごめんなさい。小屋の事は初耳で、もしそんな部屋に、いとこさんが住まわされていたら、私もひどいと思います。
 でも、私は雇われている身ですし、どうにかする権限がないんです。申し訳ないです。」
 と、ペコリと頭を下げるのに、美咲は相談する相手を間違えてしまったと、我ながらガックリ肩を落としてしまうのだった。
「そうですよね。水無月さんにはどうする事も、出来ないですよね。」
「お母様に言ってみるのは、どうでしょう。」
 ふいに振ってこられて、美咲は「え?」と、首をかしげてしまう。
「お母様だったら、いとこさんを小屋から出してあげる事が、できると思いませんか?
 凉様が頼んでみたら、聞いてくれるかもしれませんよ。」
 と、明るい調子で言ってくるのに、美咲は
(凉の父か、母親なら、出来るかも知れないけど・・。)
 当の彼らが耕太郎を、あの場所に住まわせている可能性が高いのでは?と思うのである。
(どうしたら、いいんだろう・・。)
「そうですよね。考えておきます・・。」
 と、美咲が答えると、水無月はにっこり笑って、
「どうですか?足の具合。力入れてみましょうか。」
 と、言ってくるのに、美咲は
「え?」
 と、再びうなって戸惑った笑みをもらすのだった。
 言われた通り、足に力をいれるものの、下半身は自分のものではないかのように動いてくれない。
「・・・・全然ダメです・・。」
 つぶやく美咲に、水無月は大丈夫とばかりに、
「今度はイメージしてみましょうか。目をつぶってみて下さい。」
 と、言ってくる。美咲は目をつぶる。
「凉クンの足は、とてもきれいですよ・・。これからは、もっと筋肉がついて、動くようになってきます。
 つま先に気持ちをもってゆきましょうか・・。
 気持ちがそこにゆくと、つま先は温かくなってきます。どうですかあ?」
 ゆったりとささやきかける水無月の誘導は、とてもうまい。
 彼女に言われた通り、足のつま先が少し温かくなってくるのに驚いて、
「あぁ。あったかくなってくる・・・。」
 と、小さな叫び声をあげる美咲に、水無月は
「いい感じですよお。そうやって血流をどんどん増やしてあげましょう。息を吐いてぇ・・。吸ってぇ・・。」
 と、ささやく声を聞いていると、なんとなく温かい海の底にユラユラ漂っているような心持ちがしてきて、気分がよくなってくるのだった。同時に、
(”凉のお母様”が帰ってきてから、一度話を聞いてみよう・・。)
 と、心の中でつぶやくのだった。




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