第一章
『新しい体へ』1話






   その後どうなったのか分からない。
 ふと気がついた時には、天井を見上げていた。
 処置室のような部屋で、ベットの周囲には、患者の状態を示す計器などは一つもない。
 頭には、包帯を巻かれているような違和感までを感じ、今までの美咲の体の感覚とは違う。
 布団に覆われていてもわかる。全体的に細長くても明らかに男性の骨格を持つこの体は、美咲のものではなかった。
(ひょっとしなくても、凉の体?)
 美咲は心の中でつぶやき、息を吸い込むと、空気が肺に軽やかに流れ込んでくるのを感じた時に確信した。
(凉の体だわ。この世界に、戻ってこれたんだあー!)
 と、歓喜の声を上げるまでは良かった。
 何気なしに姿勢を変えようとして・・・全く体が動かないのに気が付く。
(どうゆう事?)
 美咲は思って、足や、腕や、指など、動かそうとするのだけれど、指一本動かせないのだ。
 美咲の自由にできるのは、まばたきと、口の動きぐらいだろうか・・・。
「あうー。」
 美咲は、『誰かー。』と呼びかけようとして、うめき声のようなものしか出てこないのに、衝撃をうけて、パニックを起こした。
(うそだあー!)
「うぎゃあー。」
 声にならない叫び声をあげて発作を起こす美咲の大声を、偶然側を通りかかった看護師が気が付いた。
「どうしたの?」
 あまりに尋常ではない声に、びっくりして駆け込んでくる看護師に、美咲は気が付く事はなかった。
 意識が混濁してしてしまい、周囲を判別するのが無理な状態になってしまっていたからなのだ。
 その後、適切な処置を受け、意識を取り戻した時は、側には医師と、看護師が数人いた。
 意識がまだ朦朧としている美咲に、様々な声かけやテストを行う。
 その結果、本当に体が動かない状態であるのが分かり、再び美咲を混乱に陥らせるのだが、医師の
「リハビリを頑張ろう。神経は通っているのだから、治る可能性はあるんだからね。」
 と、何度も根気よく説得し続けてくれ、美咲は藁をもすがる気持ちで、
「あうー。」
 と、答えるのだった。
(話が違うじゃん。これじゃ、自分の“生”を生きるったって、もの凄い制約つきじゃない。)
 心の中でうめき、ガックリきた。
(さすがの凉だって、こんな風になるなんて、思っても見なかっただろうなあ…。)
 美咲は、心の中でそうつぶやき、声にならないうめき声をもらすのだった。
 ただ体が動かない現象は、凉の両親に対した時だけは、役には立った。
 目の前にいる自分の子供の様子にショックを受けて、混乱してくれたので、まさか凉の体には別人が棲みついているなんて、思わないようだった。
(それでも、選べるのだったら、自由の利く体を選ぶわ。)
 と、心の中でこっそりつぶやいたのだが、凉を見てパニックを起こしてしまった母と、ジッと耐えた表情で凉の事を見つめる父親を見て、
(榛はお父さんによく似ているんだ。)
 と、その時ばかりは、やけに冷静になって、美咲は思うのである。
 白い肌に、色素の薄い髪色。日本人離れした顔立ちの父親は、そのまま凉に受け継がれている。
 体格などは、父ほど線は細くないので、そんな所は母親似かも知れなかった。
 凉の母親は、女性にしては骨格も太くて多柄だったから。
 そんな事はともかく、凉の病室などは、当分入院するだろうという決定を、下されてから移ったのだったが、その病室は、当然個室だ。
 大げさにいえば、ちょっとしたホテルのような病室で、入院費などは、差額ベット代だけでも結構な額になるはずだった。
(なぜ凉は、死ぬ事を選んだのかしら?。両親の愛情と、経済的にも恵まれた環境にあるのに・・。)
 と、思わず美咲は謎に思い、同時に“凉の死”を詮索してはならない。という決まりごとを思い出して、それ以上考えないようにしたのだった。
 とにかく、体が動かないからといって、諦めるわけはいかない。
(なんとかならないかしら。)
 と、思いつく限り、様々な事をして二・三日が過ぎたある日のこと。
 表面上は凉となった美咲(=以下美咲)は、リハビリテーションの前に、車椅子に移り、軽い散歩をするメニューが組まれていた。
 そのためにベッドから車椅子に移り、廊下に出た時のことだった。
 いとこの耕太郎が見舞いに来るのと鉢合わせになり、彼は看護師に向かって、
「・・・散歩ですか?僕が連れて行きましょうか?」
 と、言うのである。
 彼は、事情があって凉の家に世話になっているらしく、凉が入院してから両親以上に何かと世話をやいてくれていて、この日もいつもどおりに、見舞いに来てくれていたのだった。
 凉と同じ歳らしいのだが、凉とは見た目が全く違い、同い年とは思えないくらい、ひょろりと背が高い。
 口数の少ないこの少年は、明らかに無理をして、愛想良く看護師に接している感じがみえみえだった。
 とはいえ、まだ愛らしい凉の容貌とは違い、すでに少年から大人の男に変貌を遂げようとしている途中の彼の評判はとてもいい。
 シャープなあごの線から、いつも何かを考えているように引き結んだ唇。
 野性味を帯びた彼の瞳は、雄々しさを発散させていながらも、どこか憂いをおびた大人びた表情が見え隠れする。そこが看護師達の女心をくすぐるものがあるらしい。
 実際、耕太郎が帰った後に、看護師達がこっそりと
『あの子、年のわりに大人びた感じがするのだけれど、どこか危なっかしげで、ほっとけない感じがして、気になるのよね。』
 と、興奮を抑えた声色で言っているのを、美咲は聞いているのである。
 耕太郎が来ると、看護師達の目の色が変わり、ナースステーションから嬌声が聞えてき、何かと用事を見つけて、声をかけてくる彼女達の様子を見ても、わかるのだった。
「あら、耕太郎君。今日は早いんだあ。
 凉くん、今からなのよ。散歩。と言っても、館内グルッと回って、空中庭園についたら、すぐに戻ってくるだけなのよ。
 でも、一緒に来てもらうのは凉くんも喜ぶとおもうわ。ねえ、凉くん。」
 まるで凉が一緒に来て欲しいような言い方をするのだけれど、看護師のほうが耕太郎と一緒にいたいのが、丸見えだ。
 耕太郎は、目を輝かせて言ってくる看護師に、戸惑った笑みをもらしながらも、
「病室で待っていても、暇だから。僕も行こうかな。」
 と、小さな声で賛同すると、看護師はにっこり笑って、
「じゃあ、行きましょ。凉くん、車椅子押しますよ。」
 と、言って病室を出てゆくのだった。
 車椅子を押す看護師は、揺られている凉には目もくれずに、
「耕太郎君は、学校ではもてるんじゃない?彼女いるの?」
 と、プライベートな質問をしている。
 彼女は、看護師の仕事は腰掛程度にしか考えていないのか、日頃の勤務態度もあまりよくない。ソツなくやってはいても、どちらかといえば評判のわるい看護師だったのが、
(なんだが、今日はこの人が担当なのは、ハズレを引いたみたいな気分。)
 と、なげやりに車椅子を押されて、違和感を感じていた美咲は、心の中でつぶやくのだった。
 一瞬、耕太郎も眉をひそめたものの、
「そんなにもてませんよ。彼女もいないし。」
 と、言葉少なげな彼なりに、返事をしているのが、聞えてくるのだった。
 車椅子は、廊下を渡り、空中庭園に差し掛かる。凉の病状は、体が動かなくても、内臓機能に異常がないために、外気を吸い込んでもよかった。
 逆にドンドン吸った方がいいのだそうなのだ。
 一行は庭園に入り、穏やかな陽気に美咲は、ホッと息をついた時、
「田中さん。」
 と声をかけられてハッとなる。
「はい?」
 返事をしたのは、凉の車椅子を押していた看護師だった。
(この人、そういえば、私と同じ苗字だったんだっけ。)
 一緒に振り返りそうになり、やっぱり動けなかった美咲は、心の中でつぶやいた。
「506号室の竹中さんの処置をしたの、あなた?」
 声をかけた方の看護師は、緊迫した面持ちで問い詰めてくると、田中看護師に、サッと緊張が走る。
「はい。し・・しましたけど・・。」
「ちょっと,こっち来て!婦長が呼んでらしたわよ。河田さんを、病室に戻してからでいいから。」
 そういい残し、バタバタと慌しげに立ち去ってゆく。
 残された田中看護師は、動揺し
「どうしよう・・。」
 凉を病室に戻す事すら失念している彼女に、耕太郎はそっと
「病室に戻すだけですよね。凉の面倒は、僕が見ておきますから、行ってください。」
 と声をかけると、視線を泳がせた田中看護師は、コクンとうなずき、
「いいかな。お願いしても。」
 と、返答すると、アッという間に彼女は空中庭園をあとにするのだった。
 彼女の姿を見送った耕太郎は、
「さてと。このまま病室に戻るのもなあ・・。」
 と、一言つぶやくと、いきなり車いすを反転させると、庭園の奥にどんどん入ってゆくのである。
(え?帰るって言ってなかった?)
 聞こうにも、口が満足に動かない美咲は、
「うぅー。」
 と、うなるのみ。
 耕太郎は、あらかじめ行く所を、決めていたかのようにスピードをあげ、迷わず進んでゆく。
 車椅子はガタガタ揺れて、美咲を恐怖に陥らせた。
 庭園の中は、まばらに人がいて閑散としており、奥に入ると誰もいない。
「このあたりでいいかな…。」
 ふいに背後から耕太郎の声が聞えてきたかと思うと、アッという間に凉=美咲の前までやってきた。
 素早く体を、車いすに固定していたベルトをすべて外してゆくのである。
「・・・!」
 そんな事されている間中、何も言えなかった。
 ベルトを外されると、即座に凉=美咲の体はグニャリ。と均衡をくずして前倒しになってしまう。
 耕太郎は凉の体をかばう事はなかった。
 逆に、片手でハンドルを握りしめると、車椅子ごと前に倒してしまうのだ。
(えぇー!)
 凉=美咲の体は勢いよく倒れてゆく。
 むきだしのコンクリートの腰掛けが、あっという間に近づいてくる。
 がツン。
 衝突の瞬間。ものすごい衝撃が頭と体全体に走った。
 体が硬直する。
 コンクリートの腰掛けに頭を打ち付けた後、体は跳ね上がって、そのまま仰向けになって倒れるのだった。
 頭からは出血しているらしい。どくどくと、波打ちながら、あたたかいものが額をつたわってゆくのを、美咲は他人の出来事のように、感じていた。
 その時、ふいに視線を感じ、薄れゆく意識のなかで、視線をあげると、耕太郎がジッと美咲を見つめているのだ。
「お前・・・死んでしまえ。」
 ポツンと言った彼の言葉・・。
(なぜ、そんな事言うの?)
 凉の体と融合していなかったのが、良かったのか悪かったのか。妙に客観視した思いが、美咲の中で渦巻いてゆく。
 視界が暗くなってゆくのと同時に、美咲の精神が、ズズズッと凉の体の奥深くに沈み込んで行く。
(なに?)
 初めての感覚に、美咲は慌てふためくのだが、どうする事もできなかった。
 さらに奥深くに沈み込み、凉の体に溺れそうになった時、細かな電流が、体の隅々にまで流れていった。
 それとともに、凉の体の中で感じたことのないような感覚がうまれ、極彩色の波が美咲を覆いつくしてゆく。
 その時の気分というのは、どのように表現したらいいのだろう。
 恍惚とした感情に、おし流されて、美咲はそのまま圧倒的ともいえる混沌とした意識の中に、溶け込んでいったのだった。
 ――――そして、再び気が付いた時、凉の頭部にまた包帯が巻かれている状態で横たわっていた。




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