第二章1話
『家に帰る』





「こーたろー。この服も持って帰るから、袋に入れておいてよ。」
「ばか。それぐらい、自分で入れろ!」
 秋のうららかな日差しが、病室に差し込んで来る。
 軽やかな風を、胸一杯に吸い込み、耕太郎に頼みこむ美咲に、彼はバタバタと退院の準備をしながら、怒鳴り返す。
「えー。だって、そのシャツ、耕太郎の側にあるじゃん。ついでにやっておいてよ。」
 負けじと言い返す美咲は、自然と笑みがこぼれてくるのだった。
 今日は退院の日。
(やっと、退院よ!)
 事故から、散歩に出る事はあっても、病院に常時詰め込まれている状態では、ストレスもたまってくる。
 これが、ちょっとしたホテルのような、景観の個室であってもだ。
「そろそろ、凉の両親も来る時間だぞ。それまでには、帰る準備をしておかないと。
 ミー!そんな所でボーとしてないで、自分の用意なんだから、自分でしたらどうなんだ!」
 耕太郎は、さっきからイライラのしどおしだ。
 凉の体の中に棲むのが、全くの別物と判断してから、いつの間にか彼は美咲の事を、まるで猫か何かのようにミーと呼ぶ。
 美咲も耕太郎のことを、一応『耕太郎』なのだが、呼ぶ際のイメージでは『こーたろー』と言った感じだろうか。
「だって、もう退院だよ。この部屋ともお別れなんだから、ちょっとくらい浸らせてくれてもいいじゃん。」
 言いながらも、美咲は車椅子を自分で押し、部屋を横切って脱ぎ散らかしてあった服をボストンバックに入れてゆく。
 凉の体は今の所、下肢の自由か利かない。
 退院後も、医師から全身の検査に合わせて、定期的にリハビリテーションを行うメニューが組まれ、在宅でも可能な簡単なストレッチなどの指導も受けての退院だった。
 ただ、何となくなのだが、凉のこの足は、この後も自由がきかないのではないかと、思ったりするのである。
 これは、確かな理由がないものなのだが、漠然とした感じで、そう思うのだった。
「おい!これは捨てるのか?」
 美咲が、退屈しのぎに読んでいた雑誌類を入れた袋を、耕太郎は手にして言って来る。美咲はチラッとそれを見て、少し考え込み
「・・・そうだね。捨ててくれてもいいよ。」
 と答えると、彼は袋を見てから
「じゃあ、捨ててくるから、それまでには、あらかた片付けておくんだぞ。」
 と、保護者のような顔つきで、部屋を出てゆくのだから、笑ってしまった。
 耕太郎が出て行ってから、一人クスクス笑って、バックにいつの間にか増えてしまっている、こまごまとした備品をつめてゆく。
 彼は、もともと世話好きなたちなのだろう。
 口数がすくないながらも、行動で示してくれる彼の優しさは、美咲にとって入院中でおこる、さまざなな問題の手助けになり、なにより心の支えになったのだった。
 元の美咲の環境であったなら、考えられないような病室。
 健康を維持するのに必要な、すべての環境が整い、贅沢すぎる入院生活は、今日で終わる。
 退院の日程を聞かされてから、美咲もいろいろ悩んだものだった。
 はじめは嬉しかった。けれど、いざ退院後の生活を考えだしてみると、外の世界に出てゆくのが急に、不安になってきたりした時もあった。
 この体が、自分の物ではない。と言うのが、大きな理由の一つになっているのかも知れない。
 凉の体を借りたまま、このまま病院に住み着いた方が、いいのではないか。と、まで思ったり、心が揺れたりする時もあったのだった。
 とはいえ、一度は死ぬ運命だった自分の命である。
 なんだが訳が分からないけれど、他人の体を借りて、生きてゆける今の状態である以上、もう一度“生を生きる”価値がある。と、思い直したのだった。
 外見は凉でも、中身は全く違う状態で、どうやって過ごしたほうがいいか。
 昇天した本当の凉が、『家出して元の自分の環境に左右されない人生を送るのもよし。』と、言っていたが、車椅子の生活では、それは難しいように思うのだった。
 結局、美咲は記憶喪失である事を押し通して、河田家に住まわせてもらう方を、選んだのだった。
 河田の人達と暮らす。
 そう決めた美咲は、なんとか心の整理をつけて、やっと退院を迎えたこの日は、下界に向けて巣立つ小鳥のように、緊張反面、心が浮き立ってくる。
(なんだかんだ言って、やっぱり病院に缶詰状態なのは、よくなかったんだろうなあ…。)
 ため息一つつき、美咲は作業を続けてゆく。ほどなくして耕太郎が帰ってきて、
「ほら、コーヒー。」
 と、頼みもしないのに、缶コーヒーを美咲の方に投げてよこした。
「サンキュー。」
 缶コーヒーを受け取り、プルトップを空けてゴクゴク飲んだ。朝から作業して少し疲れた体に、冷たいコーヒーは、ちょうどいい。
「こーたろーは?」
 聞く美咲に、彼は
「もう飲んだ。どうだ?用意の方は。」
 と、言ってくるのを、
「うん。もうほとんど出来たかなあ。私物がなくなると、もう別の部屋みたいになっちやうね。」
 と、ガランとなり、しみじみ様変わりした病室を見つめながら、美咲は答えるのだった。そして、
「入院中は、いろいろありがとね。」
 と、ポツッと、話しかけると、彼は軽くのけぞり、見ていてわかるくらいに動揺した表情をするのである。
「俺は居候なんだ。・・だから、入院中のお前の世話をするのは、俺の仕事みたいなものなんだから、礼なんかしなくていい。」
 と、ぶっきらぼうにつぶやいて、
「もう時間なんだが。凉の両親は、来ていてもいいくらいなのに・・ちょっと、見て来る。」
 と、病室を出て行ってしまったのだ。
 また、ポツンと残された美咲は、笑いが止まらない。
「こーたろーは、なんでああなんだろう。」
 と、つぶやいて、くすくす一人で笑うのだった。
 そして、さっき耕太郎が言った『俺は居候なんだ。』という言葉にハッとなる。
(こーたろー。凉の両親に世話になっているから、私の世話をしてくれてたんだ・・。)
 自分の意志で、病院に来ていない事実をハッキリ明言された。と思った瞬間、少し寂しい気がしたのは、なぜだろう。
 凉の両親が、退院の手続きをすませて、途中で出会った耕太郎を伴い、病室に現れたのは、それから30分ほどしてからだろうか。
 その頃には、すっかり用意も整い、新しい生活に不安と緊張が、まぜこぜになった気分のままで、ジッとしていた美咲は、突然ドアが開いて、ドヤドヤと幾人かの人が入って来る。
 人が入ってくるのが、分かっているのに、ビックリしてしまった美咲だったのだった。




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