第二章
『家に戻る』2話




 まず入ってきたのは女性だった。
 骨ばった骨格が目立つ、大柄な女性だ。
 地味な色合いのワンピースに身を包み、不機嫌なままで、人生を送ってきたかのような陰気な皺が、眉間に刻まれている。
 髪を一括りにくくってまとめ上げ、そのせいで余計つり上がってしまっているのかも知れない。一重の瞳は眼光鋭く、固く引き結ばれた口元は、厳格な彼女らしい性質を、十二分にうかがわせるものだった。
 グレーの色のワンピースなのに、まるで今からお葬式に出かけても、全然変じゃない雰囲気だ。。
(凉のお母様・・。)
 少ないながらも、何回かは目にしていたのだ。それくらいは美咲にも分かった。
 彼女は入ってきて、病室内が出発の準備がされて、きれいに片づけられているのを確認すると、小さくうなずいて、
「足の方はどうなの?」
 聞いてきた声が、想像通りに野太く、鋭い声。
 命令するのが、慣れている人の声色だった。一気に委縮してしまって、
「あの・・まだ無理みたいで・。」
「当然でしょう。」
(じゃあ、なぜ聞くの?)
 心の中で、つっ込みを入れたくなる返事だ。
「記憶は?」
 さらに問い詰める彼女の後ろの方から、
「寛子。医者もそうすぐに思いだすものじゃないと、言っていただろう。」
 と声がかかった。
 母親に気を取られていたから分からなかったのだ。
 彼女後ろで、眉をひそめて口を開いた男性は、凉の父親だ。
 母と違って、清々しい雰囲気をもっている男性だった。
 男性なのに、可愛らしい。なんて思ってしまう程だった。
 いかつい、厳しい形相の母親を見た後だったから、逆に落差がひどく見えたのか・・。
 栗色の髪の毛を後で撫でつけ、穏やかな瞳で凉を見つめている彼の視線は、愛情こもったものだ。
 まぎれもなく、凉はこの人の息子だった。
 パッチリとした二重の茶色がかった色素の薄い瞳。日本人離れした顔立ち。
 軽く会釈すると、ニッコリ笑顔を向けてくるので、なぜだか赤くなる。
 母親が、年齢不詳な魔女的な雰囲気を漂わせていたとすれば、こちらはこちらで天使の微笑みだ。
(凉のお父さんだったら、最低30歳は超えている筈だよね・・。)
 思ったくらいだった。
 滅茶苦茶若く見える?幼く見える?凉の父親と、母親が並んで見たら、とても違和感のある夫婦だった。
 夫婦だと知らなかったら、仕事場のみの、気の合わない上司と(もちろん上司は母親だ。)と部下に見えたかも知れない。
(すっごい、デコボコ夫婦・・・。)
 幾度か見た彼等の姿なのだが、美咲の状態が普通じゃなかったので、人の様子なんかに、あれこれ思いを巡らすなんて余裕がなかったのだ。
 今さらながらに、思ってあっけに取られて、ぼんやりしている美咲に、父が言った。
「凉。よくここまで頑張ったね。これからは、家でリハビリテーションをして、歩けるように努力だ。」
(父親の事は、なんて言おう・・。)
「はい。お父様。」
 と言ってみる。
 結果は『良』だったらしい、彼は、満足気にうなづき、
「じゃあ、退院するぞ。今日は、昼から会議があって、そんなにのんびりしていられないんだ。」
 と、言いながら車椅子を押すように、耕太郎に目で合図するのだった。
 耕太郎は、それを察してすぐさま榛の車椅子のハンドルを手に取り、一行は病室を後にする。




「・・・なぜ仕事の段取りをつけておかなかったのですか?凉の退院の日は、前もってわかっていらっしゃったでしょうに。」
 ふいに言葉を出した母親の、言葉に(え?)と、なる。
 夫に対するにはよそよそしい響き。父はこうやって、ちゃんと来ているではないか。
 父は、チラッと彼女を見ると。
「問題が起こって、戻ることができなくなったと、さっき言ったはずだが。」
 と、返す父も義務的な言葉。
「わかっておりますわ。
 ただ、こんなにも頑張った凉を、もう少し見てあげて下さいまし。と言いたいだけなんです。」
 凉の背後で、ささやく声の、二人の間に流れる空気。
 言っている意味が、よく分からなかったが、夫婦の間に流れる空気が、恐ろしく冷たいのに、美咲は震えた。
 思わずブルッときたくらい。
(ひょっとしなくても、凉の両親の仲は、恐ろしく悪いって事なの?)
 美咲の思いには、お構いなく一行は、病室を出てナースステーションの前までくると、看護師や医師達が、凉の家族を待っていた。
 すると両親はアッという間に表情をかえた。
『息子が退院できて、涙がでるくらい嬉しい。』顔になって、
「みなさん、ありがとうございます。」
 と、頭を下げるのである。医師と看護師達も、いっせいに頭を下げて、
「退院、おめでとうございます。」
 と、答え、ずっと凉の担当だった一人の医師が、前に進み出てくると、
「家でのリハビリが大事だからね。うちに帰って、気を抜かないように。だよ。」
 と、にこやかな笑みを浮かべて話しかけてきた。
 この先生は、体がまったく動かない状態で、パニックを起こしていた美咲に、根気よく話しかけて、美咲を落ち着かせてくれた先生だった。
 熊のような雰囲気をもち、優しげな目元の先生には、苦しいリハビリテーションに励む美咲の、相談相手にもなってくれたのだった。
 親身なって、世話をしてくれた看護婦もいた。
 美咲が、耕太郎のことを警戒して、混乱していた時も、イヤな顔一つせずに、側にいてくれた看護師もいた。もちろん、露骨にイヤな顔をした看護師もいたのだが…。
 注射の上手い看護師。全介助の時は、嚥下障害まであったので、食事する時などは、ゆっくりと少しずつ口に入れてもらわなければならなかった。
 口からだらだらと流動食を流すのを、根気よく口に運び、凉の体が一刻も早く、回復するようにと、優しい心遣いをしてくれた・・・。
 そんな事を思い出した美咲は、もうここには戻る事はないんだと思うと、切なくなってくる。
「はい。」
 返事をしながらも、こらえきれない涙が溢れ出て来る榛に、もらい泣きをする看護師まで出てきた。
「凉が、ここまで回復できたのも、皆さんのおかげですわ。ありがとうございます。」
 母親が、涙声で返事しているのが、聞えて来る。
 凉とその家族達は、医局側の人達に見送られてその階を後にすると、今度は口を開く者が誰もいなくなった。
 まるで、氷にヒビが入るのを恐れでもするかのような凍りついたような雰囲気は、まぎれもなく、父と母の二人から醸し出されている。
 病院を出ると、すぐさま父親は待たせていた車に乗り込み、そのまま行ってしまった。
 残された母親と、榛と耕太郎は、三人で待たせておいた車に乗るのだが、母親の表情のない顔。
 幸福すぎる環境にいたように見えた、榛の家庭の問題を、早速見た感じがした。




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