第二章
『家に戻る』6話





「・・・中は少し、整理をしたのだけれど、いいでしょう。
  覚えていないでしょう?」
 と言いながら、彼女は部屋の中にズンズン入ってゆく。
 部屋は単純に広かった。畳でいうと、20畳くらいはありそうだ。
 床の絨毯はクリーム色の落ち着いた色の絨毯が敷き詰められていた。白い壁紙のみで、さすがに大理石は埋まっていない。
 手前には黒い革張りのソファとローテーブル。その奥に黒い机と、パソコンが設置されていて、すぐ左横の本棚には、学校の教科書らしき書籍や事典が入っているのみ。
 黒い机のちょうど正面の壁は、くり抜かれた形の窓がある。
 綺麗な図柄のステンド・グラスが埋め込まれている。
 壁紙の白と、家具はすべて黒で統一された、色のコントラストがはっきりした、スペースばかりが目立つ、生活感のない部屋がそこにあった。
 耕太郎も黙って車椅子を押し、部屋の中に入ってゆく。
 母親は、駆け足で右奥まで進み、ゆったりとした仕草で手招きをした。
 その指示通り、車椅子は速やかに進み、右奥にあったもう一つの部屋が一望できる所まで来るのだった。
 もう一つある部屋は、独立した感じになってはいても、ドアはなく、この部屋もやたら広かった。
 先ほどの部屋から続く、クリーム色の絨毯はそのままに奥の壁際には洗面台。ベットと電気スタンド台と。家具調のポータブルトイレが、ポツンと置いてあった。
 生活感がないのは、ここも同じだった。
「トイレが部屋にあると、便利なはずだから。
 夜はメイドも手すきになるから、ここでするように。」
 母親に言われて、
「・・は・・い。」
 と答えると、また彼女は少し寂しい笑顔を見せた。
 さすがの彼女も、人の親だ。元の凉を思い出しているに違いなかった。けれど、その表情もまた一瞬で消え去り、
「夕食までに、お風呂に入ってみる?」
 と、聞いてくるのには、さすがに首を横に振らずにはいられなかった。
 お風呂もいいが、美咲は一人では入ることができない。初めて会うメイドに気を使って入浴するのは、気がひけた。
「・・・すこし休ませてもらいたいんです・・れど・・。」
 と、ひかえめに言うと、母親はコクンとうなづき、
「では、夕食の時間になったら迎えを寄こす事にするわね。では、後で。」
 と、言った彼女の言葉を合図に、耕太郎は車椅子から手を放すのが、背中ごしに気配でわかった。
(あっ・・。)
 行かないで!
 と、心の中でつぶやくのだが、何となく母親の前では、なぜだか口に出しづらい。
 母親が部屋を出てゆくのに合わせて、耕太郎も部屋を出ていってしまうのである。
 結局、凉の両親が姿を現してから、一言も言葉を発しなかった耕太郎の姿を、美咲は追い求めるのだが、閉まってしまったドアは開く気配すらない。
 シンと静まりかえっている凉の広い部屋で、じっとしていると、何だか急に、この世界に自分だけが取り残されてしまったような気がしてくるのだった。
(記憶喪失の凉を装って、正解だったかしら・・・。)
 あまりに、美咲が元いた日常からかけ離れた生活を、さまざまと見せつけられ、自分の判断が正しかったかどうか、不安にさえなってくる。
 もし、本当の凉は亡くなっていて、記憶も元に戻ることがないのだと、凉の両親にばれてしまったら、彼らの混乱は、どんなだろうか。
(それより、両親のもとで、やってゆけるかな・・・。)
 河田の家は、美咲の想像を超えている。あまりに巨大だ。
 思ったより、河田凉になるのは簡単ではないらしい。
 美咲は、ため息をついて、上を向いた。
 このまま逃げ出したくなる気持ちを抱えて、これではいけないと思う。
 夕食までには、気分だけでも立て直しておく必要があった。
 とは言え、シンとした部屋のなかにいると、気分を立て直す所ではない。
 じっとしてられずに、美咲は自分で車椅子を押し、部屋の中をグルグル回って探検する。
 母親が、凉の私物を整理したと言った通り、見事に片付きすぎるくらい、彼の色が消されている。
 彼の趣味はなんだったのだろうか。
 スポーツ用具一つないし、男の子が好きそうなグッツや、ゲームのソフトも見当たらない。
 本棚の中を見ても、雑誌一つない。勉強に関する辞典やら、難しそうな書物ばかりだった。
(かえって、今の私にとっては、とても助かる状況かもしれない・・・。)
 この部屋の中だけは、凉の過去に惑わされずにすむだろうから。
 そんな事を思いながら、車椅子を押して、何気なしに、入口からみて右側の壁に、ドアがあるのに気が付くのである。
 シンプルな木の扉で、中心部分には擦りガラスがはめ込まれていた。ドアノブを握って開けようとするのだが、重くて動かない。
(向こうの部屋は何だろう。)
 と、思い擦りガラスに顔を近づけて、見るのだがもちろん中が見えるわけがない。
 しばらくこのままじっと、ガラス越しに目を凝らしていると、
「ドアの向こうは、クローゼットですよ。」
 と、後ろから声がかかり、ハッとなるのである。
 振り返ると、にこやかな笑みを浮かべる、女性の姿があった。
 長めの髪を一つに後ろにくくり、およそ化粧気のない顔立ちながらに、人懐こい瞳がキラキラと輝いている。
「あっ。すみません。自己紹介がまだでしたね。凉様のお世話をさせていただきます、看護師の水無月です。」
 と、言って軽くお辞儀するのである。
 20代後半か、30代前半か。それなりに落ち着き、柔らかな雰囲気を持ちながら、小柄な体躯と、キビキビとした動作が、小型エンジン搭載という感じだ。
 美咲は、一目見て好感を持った。
「r凉です。よろしくお願いします。」
 と、おじぎすると彼女はにっこり笑って、
「こちらこそ・・・です。あっ、入ってくるの、早すぎました?夕飯までには、ちょっと時間がありますものね。」
 と、視線を泳がせるものだから、笑ってしまった。
 彼女の姿を見たとたん、先ほどの鬱屈した気分が、吹き飛んでしまったのだから、不思議だった。
 それだけ、彼女の雰囲気が、明るく清々しい空気をまとっていたからかもしれない。
「いえ、一人で部屋にいて、戸惑っていた所ですから、かまいませんよ。」
 美咲が答えると、彼女は小首を傾げうなずいた。
「そう言って頂けるとうれしいです。・・・ところで、もう入浴は済まされました?」
 キラキラした瞳で聞いてくるに、少し謎に思う。美咲が眼を見開くのを、
「失礼しました。まだ説明を受けておられなかったんですね。
 ここのバスルームはすごいですよ~。
 一つの部屋を、丸ごとリフォームして、バスルームと共に、たっぷり空間を生かしたリラクゼーションのような部屋も作ってあるんです。
 凉様って、すごくご両親に愛されているんだなあ。って、思いました。」
 と、憧れの入り混じった表情で言ってくるのには、美咲は思わず笑ってしまった。
(入院中には、結局見舞い来たの、合計で四回なんだよ。
 ・・どうも違うって思うんだけれど・・・。)
 と、心の中でつぶやくものの、口には出さない。
 水無月のように、環境だけを見ていると、大事にはされてはいるのは事実ではあるので、愛情一杯に育っているように思えるのだろう。
 美咲だって、初めのころは、凉の境遇に『こんなに恵まれているのに、なぜ死を選ぶんだろう。』と思ったくらいだったのだから。
(全然わからないんだよね。・・。けれど、耕太郎と凉の不仲とといい、この家は、人数もたくさんいるようだし大きいし、どこか謎に満ちた感じがするんだけれど・・・。)
 何かあったから、凉は死をえらんだのだ。
 この思いがベースにあるので、美咲は何を見ても、楽観視はできないのである。
(そうなんだ。だから、不安になるんだ・・。)
 と、そこまで思い当たって、今さらながらにハッとなる。
「凉様?どうされました?」
「何でもないです。・・・ところで、僕が記憶を失っている事は知っていますか?」
 と、聞いてみると、水無月は瞬時にまじめな顔付きになり、
「はい。」
 と、答えてくる。しかしすぐにも笑顔になり、
「私は元の凉様を知らないんです。だから、元の僕はどんなだった?なんて聞かないで下さいね。」
 と、あっけらかんと答えてくるのだった。
(やっぱり何だか、この人といると、気が楽になってくる・・。)
 救われた気持ちがした。
「聞きませんよ。ただ、僕の状態が、水無月さんに伝わってるのかなあ。なんて、思っただけなんだから。」
 と、答えながら、
(この人がそばに居てくれたら、なんとかやって行けそうな気がする・・・・。)
 と、心の中で、つぶやくのだった。
 とにかく夕飯までには、だいぶ時間がある。美咲はこの水無月という看護師と、少しおしゃべりしておこうと、おもうのだった。




   top        back       next




URL[http://kagi1.yumenogotoshi.com/misaki_index.html]