第二章
『家に戻る』7話




 話の合う人と、ともに一緒にいると、時間も短く感じられるものである。
 短い時間の間に美咲は、水無月がまだ小さな子供を親に預けて、ここで住み込みの仕事をしている事を聞き出していた。
「寂しい?」
 と聞く美咲に、彼女はその時ばかりは、少し翳りのある笑顔を見せて、
「寂しいですよ。けれど、働かなければ食べてゆけないから・・。実は、負債を抱えているので、日勤の仕事じゃ、おっつかないんです。
 ここの給料、素晴らしく良くって・・。代わりにいろいろ注文の多い雇い主だなあ。と思いましたよ。
 でも、凉様に会ってみて、正直感動しています。なんて心のきれいな人なんだって・・・。この仕事に就けて、良かったって、思いました。」
 と、まるで子供のように、心の内を明かすものだから、美咲は赤面してしまうほどだった。
「心がきれいだなんて・・・買いかぶりですよ。全然普通ですから・・。」
 と、戸惑いがちに言う美咲に、水無月は首を振り
「会ってそうそう、よく知らないうちに、こんな事言ったら、ダメですよね。」
 と、自分のこぶしで、自分の頭をコツンとこづく。
 そういった動作も、嫌味ではなく、可愛らしく映るのである。
「水無月さんの仕事は、主にどんな仕事なのかなあ。」
 と聞くと、
「下肢の麻痺改善のためのリハビリテーションのお手伝いとか、マッサージとか・・。いろいろですね。」
 と、水無月が答えた瞬間ポーン。と軽い音が鳴り響く。
(どこが鳴っているの?)
 と、びっくりした美咲に、水無月は大丈夫よ。とばかりにうなずいて、
「はい。」
 と、答えると、ドアが開き、メイドが中に入ってくる。
「夕食のお時間ですが。」
 と、聞いてくるのに、もうそんな時間なんだと思う。
「はい。行きます。」
 と、答えると、
「かしこまりました。」
 と、返事があり、彼女は凉のそばまで来ると、車椅子のハンドルを握る。
「お願いします。」
 水無月が言うと、メイドもコクッとうなずいた。車椅子は静かに進み、部屋を出ようとした瞬間に
「あっ、今日のお風呂はどうしましょう。」
 と、背後から声がかかった。
 美咲は、あまり考えたくなかったが、疲れをとるにはお湯に浸かっておくほうがいいかもしれない。少し考え込んで
「・・・寝る前に入っておこうかなあ。」
 と、答えると、水無月はにっこり笑って、
「かしこまりました。」
 と、返事があるのだった。
 メイドに車椅子を押されてエレベーターに乗る。
 彼女はボタンを押し、一階にたどりつくと、ポンという音とともに扉が開く。食堂に入るまで、一言も話さない。
 美咲は、そんな彼女を、気にしている余裕がなかった。再び凉の母と顔を合わさなければいけないからだ。
 メイドがドアを開けた。
 すでに、母親がテーブルに座り、待っていた。
 ワンピースの色が、紺色に変わっただけのそっけない格好だ。
 キッチリとひっ詰めた髪の毛は、一本のおくれ毛も出ていない。
 無表情な顔色を見ただけで、恐くなってきた。
「いらっしゃい。凉。」
 大きな手を、ゆったりと翻して母が手招く。榛の車椅子は滑らかに進んだ。
 食卓には、三人分の食器がならんでいた。けれども父の姿はもちろんない。
「はじめて頂戴。」
 そばで控えていたメイドに、母親が言う。
 夕食が始まった。
 とびきり豪勢な、二人っきりのフルコースの食事だ。
 光り輝く食器に載っている食べ物を、美咲はほとんど味わうことなんて、できなかった。
 そんな美咲の様子を、見ているようで、彼女の瞳の色は変わらなかった。
 絶品なはずの料理を、まずそうに口に運んでいる。。
 目の前の銀の皿が、照明にきらめいて、めまいまでしてくるのは緊張のためか。
 とにかく美咲も食事を口に入れる。きっと、母と同じような表情をしているはずだ。
 母は味わえぬ料理の代わりに、グラスな中でゆらめくワインには、舌つづみ打てるらしい。
 デキャンタージュされて、馥郁としたワインの香りを、彼女なりに楽しんでいるようで、口の中で転がしていた。
 縦長に注がれたデキャンタは、みるみる量が減ってゆく。
 無表情の中にも、かすかに感情の揺らぎを見ることができて、母親も人間らしい所もあるのだと、思わせてくれる。
 そして、もったいない事象がおこっているのが、食卓にもう一人分の皿が出されていることだ。
 おそらく父の分だろう。誰も口をつけないまま皿が下げられて、料理が入れ替わった。
 食事の間はほとんど会話らしいものがない。
 コーヒーと小さなケーキが出てくるのを見た時、美咲はやっと堅苦しい食事が終るのだと思った。
「凉。居間に屋敷のほとんどの者が揃っているから、顔を合わせておきなさい。
 彼らも退院のお祝いをしたいって話なのだから。」
 コーヒーを飲んでいる時に、それを聞いて、咳こみそうになる。
(まだあったの?)
 つい引きつった笑みを浮かべる美咲に、母は
「コーヒーのおかわりは?・・・いらない?じゃあ行きましょう。」
 と言って立ち上がるのだ。
(こーたろーがいるかもしれない)
 ふいに思って淡い期待をもった美咲は、メイドに車椅子を押され、食堂を後にするのだった。
 居間は、食堂の隣りにあった。いつの間にかドアは開けられていて、母と共に入った美咲は
「退院おめでとうございます。」
 と、いち早く声をかけられ、同時に大きな拍手を浴びせられた。
 そして、入口近くに控えていた者によって、花束が渡される。
「ありがとう。」
 とっさに返事のできなかった。
 部屋の中には10人くらいの人達がいる。
 女性のすべてはメイドの服装をしている。男性も黒のスラックスと、ワイシャツという出で立ちで、従業員そのものの感じだ。
(こーたろーは?)
 美咲は、すばやく彼の姿をさがすが、いなかった。
 思わずガックリする。
「本当はシェフやら、庭師やら、この屋敷を維持してゆくためのスタッフは他にもいるのだけれど、直接関わってこないからいいでしょう。
 さあみなさん。やっと凉が帰ってきました。以前のようにとは、いかないけれど、仲良くしてやって下さい。」
 母親の言葉が合図のように、従業員がみなニッコリ笑って凉を見てくるので、美咲も引きつった笑みを浮かべて
「よろしくお願いします。」
 と、答えた。
 母は何気ない風に手をあげる。
 それが合図だったようで、河田家の従業員が、順番に挨拶にくる。まずは、従業員筆頭らしい田尻。そして初老の丸川と名乗った男性が、車椅子に座る美咲の前でひざまずく。
「退院おめでとうございます。田尻と、丸川です。河田家内の、さまざまな雑事を取りまとめております。」
 と、言って頭を下げた。
「よろしくお願いします。」
 美咲が頭を下げると、次は2階担当のメイドの紹介。その次は1階担当のメイド。3階担当の者。男性の従業員へと紹介を受けて挨拶をするのだが、一度に紹介されても、さっぱりわからない。
 美咲はひたすら「よろしくお願いします。」と、頭をさげ続け、ひととおり終わった所で、母親はうなずき
「凉。疲れた?」
 と聞いて来るので、美咲は素直にコクン。とうなずいた。
(疲れないわけがないわ。)
 と、心の中で愚痴っていると、母親が凉の肩をポンと叩き、
「まあ、仕方ないわ。これが我が家なのよ。
 今は全然見覚えない事ばかりだろうけれど、きっと、思い出す日がくるはずだから、あまり落ち込まないようにね。。
 さあ、上にあがって、ちょっと休憩したら、お風呂の準備をさせておくから、入って寝なさい。」
 と、言ってくるのである。
(思い出す日は絶対ないんだけれどなあ・・・。)
 美咲は、顔が引きつってくるのを、どうしようもなく、無理に笑顔を浮かべて
「はい。」
 と、答えると 即座に車椅子が動く。
 滑らかに進んで、居間を後にし、エレベーターに乗り込んで、自分の部屋に戻って一人になった時、思わず大きなため息をついてしまう。
 経済的には完璧すぎる程、整った環境だった。
 しかし、当分慣れるなんてできない環境だった。
 その後、力を抜いてリラックスしていた美咲に、またポーンという音がして、メイドが入ってくる。
 ポーンという音は、足の不自由な榛のために、チャイムのような役割を果たしているのだと知ったのは、この時だった。
「お風呂の準備は整っておりますが。」
 と、問いかけがあり、
「お願いします。」
 と答えた美咲は、また車椅子を押されて連れてゆかれたリラクゼーション専用の部屋は、これまたすばらしい。
 部屋は合計で三つあった。
 ほのかに明るい照明のもとで、一つはバスルーム。もう一つは大きな鏡と、観葉植物の置かれた脱衣所。そして、アロマの香り漂うマッサージ室があり、マッサージ室には、看護師の水無月がにこやかな笑みを浮かべて美咲を待ちかまえていた。
 水無月ににっこり礼をして、脱衣所に向かうと、男性従業員が中で待っている。
 そこで、メイドと交代して、彼の手を借りて脱衣をすませ、車椅子からを移乗した。
 脱衣所からバスルームへは、極端に動線が短く設計されていて。おまけにあちらこちらに手すりが設置されている。
おかげで、洗い場まで従業員の力を借りながらも、スムーズに椅子に座る事が出来る。
「お願いします。」
 湯船に浸かる入る直前、小さく美咲が言うと、彼はは少しびっくりしたように目を見開き、
「はい。こちらこそ、慣れていないので、申し訳ないです。」
 と、逆に答えてくる。
 たしか、彼は澤田と、名乗っていたはずだった。
 横広がりの浴槽に、なみなみと注がれている湯に浸かるとホッとなる。とても気持ちのいいものだった。




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