第二章8話(上)
『家に帰る』
設備の整ったお風呂タイムは、完璧といえるほどに快適に入れた。
その後の筋肉を柔らかくさせるのが目的のマッサージと、軽いストレッチは、美咲にとって少し辛いものがあったのだが、耐えられないわけでもない。
すべてのメニューが終了し、自分の部屋に戻ってベットに寝転がり、一息ついた時には、心地よい疲労感とともに、安らかな眠りに入ってゆけたのだった。
次の日の朝は定時に、メイドによって起こされる。
軽く顔を洗った美咲は、朝食をとるため、下の階へ降りた。
食堂に入ると、テーブルには一人分の皿しか置いてないのに不思議に思う。
当然のように父親の姿も、母親の姿もない。
「あの・・。父と母は?」
と、朝の早くから髪のセットも、化粧もしっかりしている川尻に聞くと、
「奥様は、ここではお食べになりませんよ。毎食ご自分のお部屋でお摂りになるんです。昨日は特別でしたね。
・・・旦那様は、昨日は戻られてなかったかなあ。」
と、いつもこんな風だ。という感じで言ってくるのである。
(そうなんだ〜)
と思い、少しホッとする。
今日も朝から母の視線を浴びないといけないかと思って、憂鬱になっていたのは事実だから・・。
けれど、毎食そうなのだったら・・・。
凉は一人でずっと、ここで食事をしていたのだろうか。
すばらしく恵まれた環境。けれど、食事は別々の家族達。
そこまで思って、凉の過去を詮索しない。という約束ごとを思い出す。
(考えたらいけなかったんだわ。でも、私にとっては、その方が都合がいい・・。)
母親と共にいて、片身の狭い思いをした昨日の事を思い出して、美咲は心の中で、そっとつぶやくのだった。
テーブルについた途端、次々に出されるパンや牛乳、スクランブルエッグや、サラダ。果物などの量の多さに目が丸くなる。
いやいやでも口につけてみると、これが結構おいしい。
はじめはポツポツと、しかしおいしいと思うと、凉の体が“もっとお腹の中へ!”と、要求してくる。
気が付けば、ガツガツと、食べ物を口の中に入れてしまうのだった。
「美味しかった・・・。」
昨日とは違い、満腹感たっぷりに満足して、ポンとお腹をたたく美咲に、
「食後はコーヒーですか?」
と、川尻が聞いてくるので、
「お願いします。」
と答えると、彼女は頷き、部屋を後にすると、ほどなくして淹れたてらしい、カップに入れたコーヒーをトレイに乗せて部屋に入ってくる。
「ありがと。」
美咲が言うと、川尻は目をしばたいて、コクッとうなずいた。
食事を終えた美咲の車椅子は、三階の部屋に戻ると、
「用がありましたら、これで呼んでください。」
と、コードがついたスイッチを渡してくるのである。
コードは、部屋に入ってすぐのコンセントに繋がっている。
なんとなく、ナースコールを連想させられる代物だ。
「はあ・・。」
と、答えてスイッチを受け取って、何気に今日の予定が気になった。
「母から何か聞いていない?今日の予定とか。」
と、問いかけると、彼女は首をかしげて、
「・・・・何も聞いていないですよぉ。奥様はついさっき出かけられましたしねえ。」
(予定は入ってないんじゃないですか。)
のような感じを、言外に匂わせて答えてくるのに思わず、ホッとする。
そんな美咲に、川尻は笑顔を見せて部屋を後にした。
母がいないとなると・・・残された美咲に、何か言う人もいなさそうだ。
今日は十月十日。
土曜日でも日曜日でもない平日だ。壁に掛けてあるカレンダーを目にした時、ある事に思い当った。
(学校はいつから行くんだろう・・。)
心の中でつぶやくものの、これも昨日母からは、何も聞いていなかったので、わからない。
(まあ、行かないわけないだろうから・・・そのうち声がかかるはず。)
と、天井を仰ぎ見るのだった。
凉の部屋は、朝の光を浴びてとても明るい。
ジッと何もせずにいるのはもったいない朝だ。
美咲は、あてがわれた自分の部屋の中を、落ち着かなげに車椅子を手押しして動き、
(そうだ!河田家の中を、探索しよう。)
と、思い立つと、美咲は引き戸に手を当てると、滑らかにドアが開いた。
廊下を出た美咲はとりあえずは美咲がいる二階の端から端を、探索してみようと思うのだった。
エレベーターに乗り込み、三階に上がって、掃除しているたくさんのメイド達に注目され、
「・・・。」
あわてて扉を閉める。
3階は、両親の部屋だったらしい。
1階に降りると、応接間と食堂。居間へと続く。厨房なども1階にあった。
大正期に建てられただけあって、すべての調度品は年代がかっていて、その上素晴らしく手の込んだものばかりだ。
おのぼりさんよろしく、美咲はキョロキョロ見ては、「あぁ。」とか「ふーん。」とか、一人つぶやいて探索を終えると、正面玄関に辿りつく。
玄関ホールは広い。両開きのドアの半分は開いたままになっていた。
緑の多い景色が、切り取られたかのように見える。
エレベーターホールの端には、昨日美咲が来た時のまま、車椅子が折りたたまずに、そのままの状態で置いてあった。
それを見た時、美咲はムクムクと、外も見たい気持ちがわきあがってくる。
(どうしよう・・・。外に出ようかなあ。)
と思うにも、一人での車椅子の移乗は、したことがない。
(スタッフの誰か・・・通ってくれないかなあ・・。)
と思って、廊下の奥に目をやるものの、こんな時に限って人の気配がないのだ。
しばらく待っていたものの、
(自分で出来るかやってみよう・・。)
と、思い立つのだった。
外出用の車椅子にギリギリまで近づけ、車輪の部分にロックをかけると、両方の車椅子のがわあての部分を引き上げた。そして片方の手は、移る車椅子のシート部分へ、もう片方は自分のお尻の横に手を置き、体を前のめりにして、腕に力を込める。
「えいっ。」
と、声をあげて、ほとんど倒れこむようにして、外出用の車椅子に移動ができたのである。
「やったあ!」
美咲は思わず歓声をあげ、プッシュアップをして、ちょうどいい座位を取るのだった。
「やればできるじゃん。」
美咲は“がわあて”を下ろし、ハンドリムを握って早速外に出てゆくのだった。
外に出ると、柔らかな日差しと、木の香りが美咲を迎えてくれる。
「気持ちいー!」
伸びをして、小道を走らせた所まではよかった。庭に行こうとしても、そこに続く小道は整地されてはいても、石畳である。
ハンドリムを握って庭に行こうとして、とても進みづらいのに、今さらながらに気が付くのである。
(まずは屋敷の周囲を見てみよう・・・。)
心の中でつぶやいて、美咲は進んでゆく。
外から見た屋敷は、太陽の陽気に照らされ、シンとした雰囲気でたたずんでいるように見えた。人の気配が感じられない。
なぜだか背筋にゾッとするものを感じるのだが、それは一瞬で消え去ってゆく。
館のすぐ横には、車が四、五台停車できるくらいの駐車場があり、今は一台も停まっていなかった。
屋敷の周囲を取り囲むようにして、美咲でも行きやすいような小道が出来ていた。従業員が使う道なのだろう。
土の地面も、思った以上に進みにくい。
思わぬ所で足を取られて、元にもどすのに四苦八苦しているうちに、帰ろうかと思った。
けれど、カラッと晴れた陽気と、清々しい外の空気が良すぎた。
あともう少し、あともう少し行ってみよう。と、散策しているうちに、妙な小屋を見つけるのである。
(なんだろう・・・。)
惹きつけられるようにして、美咲は小屋に近づいてゆく。
恐ろしく古い木造の納屋らしきそれは、ちょうど美咲の鼻先あたりの高さから天井あたりまで、木の板を立て付けてあり、その部分だけは新しい木材で覆われている。
まるでそう・・。元は厩であったような雰囲気のある建物だった。
人の気配がないはずの建物なのに、電線が引いてあるのにも、美咲の頭の中に?マークが浮かぶ。
美咲は、入口らしき所まで来ると、引き戸になっている戸に、エイヤッと力を込めると、思いもかけず緩やかに戸が開いた。
中の風景を見て・・・。
美咲は愕然としてしまった。
土の地面。錆びついた机。二段ベット。
すべてが埃っぽかった。
朽ちかけた木材が吐き出す独特の異臭が鼻につく。
床が土間であるがゆえなのか、湿気が中に常駐しているかのような息苦しさを感じ、美咲の体が拒否反応を起こした。
(ここはいや!)
と、その場からすぐにも立ち去ろうして、視界の端に目にしたある物が、美咲の頭の中でひっかかる。
思わず動きを止めて、目をしばたいて見据えてしまった。
その物とは・・・。
事務机の上の、参考書や中学3年と書かれた教科書。
イスには無造作にかけてあるジャケット。ベットにも脱ぎ散らかしている男物のパジャマ。
柱と柱の間にロープを張り、何着かのTシャツや、Gパンがかかっていた。
美咲にとって、そのほとんどの物は見憶えがある所ではない。
馴染み深いものばかりなのだ。
(嘘・・・。信じられない・・。)
美咲は目にしたものが、にわかには信じられない。
けれど、何度目をしばたいてみても、それらの物は、なくなりもせずに、そこにある。
(こーたろーの・・。)
その物達のすべては、耕太郎が身につけ、手にしていたものだった。
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