第二章
『家に戻る』10話




 そして、お風呂タイムが終った美咲の姿は、寝室にはない。
 尿瓶がわりのコップを持って、耕太郎の納屋に向かっていたのだった。
 玄関にはもちろん外出用の車椅子がない。けれども、今使っている室内用の車椅子があり、扉にも鍵もかかっていなかったので、美咲はそのまま外に出てゆくのだった。
 スタッフに見つかれば、凉の部屋に引き戻されるはずだ。
(見つかったら、この計画はダメになってしまう・・。)
 と、思ってシンと静かな小道を横切る美咲の心臓は、緊張感でバクバクと破裂せんばかりに高まっていながらも、力の限りの早さで進んでゆく。
 あわてて進んだおかげで、以前納屋を見つけた時の、半分も時間がかからずに、たどり着けたのだった。
 息を切らして、美咲はノックを一つして、返事を待つが中からの応答がない。
 人の気配さえないような気がして、美咲は思い切って扉を開けると、中はがらんとしていて誰もいなかったのだ。
(こーたろー・・いない・・。)
 と、心の中でつぶやいた美咲は、がっくりくるが、いない者は仕方がない。
(ちょっと、中に入らせてもらっておこう・・。)
 と、ハンドリムを握って、中に入ってゆくのだった。
 お風呂タイムの時に、必死で考えた美咲の作戦とは、凉=美咲自身も納屋に住む。というものだった。
 母親とも話にならないのだから、行動に出るしかないと思ったのだ。
 こんな衛生的にも、健康にも悪い場所に、凉が住むといいだしたら、さすがの母親も、美咲の意見に耳を傾けてくれるだろう。
 結果、吉と出るか、凶と出るかは、さっぱりわからない
 我ながら稚拙な作戦だとは思うのだが、周囲の協力の得られない美咲には、こんな方法しか思いつけなかったのである。
 美咲は、カビ臭いのと同時に、前に来た時にも感じた、木が腐ってゆく時に出るように思う、独特の異臭に顔をしかめながら、納屋の中を見回すのだった。
 相変わらず埃っぽく、土間に埋もれる机の脚の錆や、傾いた板の間に、所狭しと積み上げられている衣装ケースの中には、衣類だけではなさそうだ。
 さまざまな雑貨達。
 布で編まれた古い人形が、衣装ケースの上に、ポツンと置かれている。
 贅沢の極みをつくした凉の部屋から、ここに移ってくると、今さらながらに生活レベルの落差に、ア然となる。
 しかし、なぜだかこの部屋の方が、美咲には馴染みがあり、人の住む気配、生活感を感じるのである。
 それは、耕太郎の私物があるからなのだろうか。
 ぼんやりと、そんな事を考えていた美咲は、突然何の前振りもなく、ガラッと扉が開くので、びっくりしてドキドキしだした胸を押さえた。
 扉を開けて入ってきたのは、耕太郎ではなかった。
 血相を変えて立ちはだかる母親と、その後ろには2.3人の従業員とおぼしき人の姿。
「お母様!」
(こんなに早く来るなんて・・早すぎる!)
 これでは耕太郎と、話すらできない。
 ただでさえコミュニケーションの希薄な家族なのだから、従業員がまず凉が部屋にいないのに気付き、最後に母親の耳に入るはずだった。
 それまで、耕太郎と相談できれば・・と、思っていたのだ。
 こんなに早くに事態がばれて、それも母親が直々にお出ましになるとは思ってもみなかった美咲は、何と言っていいかわからず、狼狽してオロオロしていると、
「記憶が無くなっていても、凉が考えそうな事ぐらいわかっていてよ。
 こっちに来なさい。」
 と、例の感情のうかがうことできない冷たい表情で母親が言い渡し、同時に後ろに控えていた複数の従業員が美咲の車椅子を取り囲んでくる。
 ガッシリとハンドルと車輪を握られ、問答無用とばかりに納屋から引き出そうとかかる彼らに、制止すらできない美咲は、心底自分の体を呪った。
「やめてえー!僕はここが気に入ったんだ。耕太郎だって、ここに住んでいるんだから、なぜダメなんだよ。」
 トイレの始末や、ここに住むのであれば不都合なことが多すぎて、美咲は、自分でも変なことを言っているのは、重々承知の上だった。
「僕の話を聞いて下さい。お母様。お願いだから!」
 声を限りに叫んでも、母親の表情は変わらない。
 返事すらないのに、美咲は絶望した。動かせる上半身だけでもフル稼働させて、屈強な男たちの肩や顔をベシベシ叩いてゆくのだが、全く歯が立たない。
 速やかに車椅子は、納屋から出されてゆく。
 それでもなを、美咲は外に出されまいと、抵抗を繰り返す。
 男達の指を離そうとし、腕をたたき、顔を平手うちする。
「なぜ耕太郎を、こんな所に住まわせているの?あなた達おかしいわ!
自分でもわからないの?」
 体を目一杯動かし、必死に抵抗しながら、どうしようもなく混乱した美咲は、自分が心の中でつぶやいていた言葉使いに戻っていたのに、気付きもしない。
「許せない!こんな事、やめてったら!話くらい、聞いてくれてもいじゃない。なぜ無理矢理連れて行こうとするの?」
 叫びながら、興奮しすぎたからだろうか。次第に視界が赤く霞みだしてくるのに、美咲は気づいた時には遅かった。
(どうしたら・・耕太郎をここから出してあげれるの?)
 意識が朦朧となる直前に、思ったことといえば、こんな事だった。




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