第二章
『家に戻る』第12話





 昏睡状態に近いくらいに深い眠りについた美咲は、朝目が覚めた後も、何ともいえないだるさが残った。
 凉の母親との話合いの内容は、二人だけの秘密で、他の者には伝わっていないらしい。宮迫、富谷や水無月、田尻などの従業員の、いつもと変わらない凉への対応を見ているとわかるのだった。
 服を着替えた美咲は、一階に降りるとほとんど無理矢理、体に朝食を詰め込んでゆく。
 午前中には、予定通りに家庭教師が、凉の部屋にやってきた。
 彼は自己紹介をすませると、一通り凉の学力の程度を測る簡単なテストを行った。
 結果、あまりの低さに驚愕し、苦笑いを浮かべるしかないらしかった。
「すみません。事故にあってから記憶の方がどうも・・。」
 と、学力のほうは記憶障害のせいにして、美咲はつぶやくと、彼は同情の笑みを浮かべた。
「ちょっとずつ、取り戻してゆきましょう。そのために、僕が雇われているのですから・・。」
 と、答えてくるのだった。
「次に来る時は、ある程度、メニューを考えておきますね。」
 では、奥様にも伝えてきます。
 と、言い置いて、渡辺と名乗った家庭教師は、部屋を後にする。
 時計を見ると、ちょうど12時前だ。
(そろそろ、昼食に呼びにくる時間だわ・・。)
 思った途端、ポーンと呼び出し音が鳴り、富谷が入ってくる。
「今日のお昼は何ですか?」
 聞く美咲に、
「本日は、中華の日だったと思いますよ。メニューはなんでしたっけねえ・・。」
 と、首をかしげる富谷に、美咲は
「まあなんでもいいです。」
(できたら食べやすい麺類の方が、うれしいんだけどなあ・・。)
 と、相変わらず倦怠感が消えないままの美咲は、心の中でつぶやくのだった。
 一階にたどり着き、食堂に用意されてあった昼食は、美咲の希望通りの麺類だった。
(これだと、食べやすいわ!)
 心の中で呟いて、美咲は箸をとる。
 そして体に少しでも食べ物を入れてゆくと、倦怠感もちょっとは楽になったように思うのだった。
 昼食を軽くすませた美咲は、エレベーターに乗り込み、2階の扉が開く。
 自分の部屋に戻ろうとして、廊下に耕太郎の姿が見えたのだ。
 ドキッとなった。
 少し前かがみな姿勢。
 相変わらずのヨレヨレのTシャツに着古したGパン姿は、美咲が入院中に見せた姿そのままで、つい4.5日前にも会っていたのにも関わらず、懐かしさのあまりに鼻の奥がツンとなってくる。
「こーたろー!」
 嬉しい感情をそのままに、美咲が呼びかけると、彼はチラッとこちらの方を見つめてくる。
「引っ越しは済んだ?」
 問いかける美咲に、耕太郎は小さくうなずき、
「まだ全部は運べていない。」
 と、答えてくる。
「どの部屋になったの?」
 メイドに車椅子をひかせて、耕太郎に近づく美咲を見つめる彼の表情はなぜか硬い。
「ちょっと、部屋いいか?」
 聞いてくるのを、美咲が断るわけがない。
「いいよ。」
 軽く答えて、引き戸を開けて、「どうぞ。」と彼を招き入れる。
 メイドは凉の車椅子を中に入れると、すぐさま部屋を出て行った。
 二人っきりになり、部屋の中で所在なげに、たたずむ彼の口元は引き結ばれ、瞳の色も氷のように冷たいのに、やっと美咲はおかしいと気が付いた。
「どうしたの?」
 無法備に聞く美咲に、耕太郎は眉をひそめ、
「お前、どうゆうつもりで俺を、屋敷に呼んだんだ?」
 と、とがめる調子で聞いてくるのである。
「どうゆう・・つもりって・・。」
 と、彼の剣幕にとまどう美咲に耕太郎は
「俺があの納屋から出してもらって喜ぶと思っていたのか?」
 と言い募ってくるのである。
 美咲は一瞬、固まってしまった。
(あんな所で住む方が、良かったというの?)
「でも、あんな部屋にいたら、健康に悪いと・・。」
「健康に悪かろうが、俺が納得して住んでるんだからいいんだよ。
 そっちは、そうやって人に施しを与えて、さぞ気持ちがいい事だろうけれどな。」
 と言われて、やっと美咲は自分のしたことが、彼の怒りの引き金を引いてしまったのは事実らしい事だけはわかったのだ。
 美咲は思わずショックを受けた。
 けれど、言われてみれば、何の相談もなしに、いきなり屋敷に移り住めと言われても、納得しづらいのも、当然なのかも知れなかった。
 耕太郎が、屋敷の人達にいい感情をいだいていない場合、それはなおさら考えに入れておかなければならなかったのだと、今さらながらに気づくのだった。
 美咲は少し考え込むと、深呼吸一つした。
「ごめん、こーたろー。君に一言相談できれば良かったんだね。
 僕も段取り悪くって、ごめんよ。
 でも、このことは施しだと思ってしたんじゃないって事だけは認めてほしいんだ。耕太郎は、あんな所に住むべきじゃない。
 今だって、ずっと咳をしているじゃないか。未来のある健康そのものの君が、あんな所に住んでいるだけで、病気になってしまう・・・。」
「そんな事、お前に心配されなくったって、自分でなんとかするさ。
 さっきも言っただろ。俺は、ここに住む事を望んでいない。迷惑なんだよ。」
 淡々とした話し口調がかえって彼の心情を、吐露してしまっている。
(そんなにしてまで、ここに住むのがイヤになっていたなんて・・・こーたろー、何があったの?)
 美咲は、この家の問題の深さに、頭を抱え込んでしまった。
 がっくり首をうなだれて、へこんでしまった美咲は、自分の心の中で、『じゃあ、どうしたいのか』と問うてみる。
 耕太郎の話を聞いて、彼の意見を尊重し、元の納屋に帰ってもらうか。
 それとも、彼の意見は意見として、美咲が考える彼の体の健康を優先させるか・・。
 美咲の気持ちは変わらなかった。
「ホントにすまなかった・・・こーたろーの事情も考えずに、無理矢理屋敷に呼んだ僕を憎んでくれても構わない。
 逆に、僕を利用してくれたらいいよ。居心地悪いだろうけど、この階ぐらいは、僕の一存で何とかできそうだから・・・。」
 言いながら、凉の母親の顔が思い出される。
 美咲は、何を切り札にしたか分らないなりにも、彼女と互角にやりあったのだ。それがある限り、毎日の些細な出来事は、凉=美咲の一存でどうにか出来そうに思うのだった。
「体の調子を整えて・・・なんなら、凉の記憶を持たない僕に、家庭教師が付いたんだ。こーたろーも、一緒に教えてもらう?」
 と、聞く美咲に、耕太郎は、心底呆れたように
「はあ?」
 と、調子を崩されたような声をあげる。
 話にもならない。とばかりに首を振り、
「やってらんねえ。」
 と、一言吐くと耕太郎は部屋を出て行ってしまったのだった。
 ポツンと残された美咲は、ため息一つ。
(ここまでが、私に出来ることの限界・・。)
 と、心の中でつぶやいた。
 耕太郎が、どうしてもイヤだとすれば、美咲とは違い、彼には自分の足も力もあるのだ。意地でも納屋に住み続ける事ができるだろう。
 そうなると、美咲にはどうすることもできない。
(とてもいい環境があるのに、どうしてうまくゆかないんだろう・・・。)
 そう思うと力が抜けて、耕太郎とやりあった分、体力を消耗してしまった美咲は、さらに眩暈までしてくるので、車椅子を動かし、ベットに向かうのだった。
 耕太郎が、屋敷に住んでくれるのを、祈るしかなかった。




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