第二章
『家に戻る』第15 話






「粉から作るパンなんて、作ったことがないからな。お前がちゃんと指図しな。」
 車椅子はスタッフ専用の扉の向こうを進み、耕太郎が背後から囁いてくる。
「まかせておいてよ。自家製のパンは、何度も焼いているから、分量もソラで言えるさ。」
 ガッツポーズをとる美咲に、耕太郎はホッとした顔をしてニヤリと笑うと、
「そりゃ楽しみだ。すっごい硬いパンだったりして・・。」
「コネがうまくいかないと、そうなるよ。」
 当たり前のように美咲が答えると、
「まじー!買って食べるか、プロが作るパンを食べる方がいいじゃん。」
 背後で、のけぞっているらしい、耕太郎が言う。
 そんな無駄話をしているうちに、美咲達は厨房の前まで来たらしい。扉を開けると、車椅子は中に入って行った。
 床はむき出しのコンクリートに、あちこちに排水の溝が掘られてある。
 すべてステンレス製の網がかけられていたが、地面はデコボコしていて車椅子では進みづらかった。
 厨房はちょうど空き時間になっていたらしい。人の姿が見えず、
「辻野さん?」
 と耕太郎が声をかけると、奥の方から太った壮年の男性が出てきた。
 おっとりとした雰囲気の彼が、河田家での食卓を彩るシェフだろう。
「こっちにおいで・・。」
 手まねきするので、耕太郎は車椅子を押して、呼ばれた場所まで行く。
「もう少ししたら、昼食の準備が始まるから、この当たりでやってくれ。
 ここなら邪魔にはならないから。
 オーブンも言ってくれたら、使えるように予熱しておくよ。」
「すまない。辻野さん。面倒かけて。」
 耕太郎は指差された小さな台を見てうなずき、辻野に言うと、彼はニッと笑った。
「いいってことよ。材料の配分はわかるか?」
「わかります。初めまして、いつもおいしい料理を食べさせてもらって感謝しています。」
 美咲が割って入ると、辻野はなぜだかびっくりした顔をして、こちらを見てくるのである。
「・・あぁ、凉様。事故で大変でしたね。
 材料でほしいものがあったら、何でも言ってくれたらいいですから。ここにあるものだったらの話だけれど。」
「ありがとうございます。
 早速なんですけれど、強力粉と、薄力粉。砂糖と、塩。乾燥でいいのでイースト菌。牛乳。生クリーム。ショートニング・・・。」
 と言う美咲を、辻野は何ともいえない表情で見つめてくる。
「材料の方、ありますか?」
 と聞く美咲に、ハッとなって
「あぁ・・もちろん。それくらいの物はうちでも常備しているよ。ちょっと待っていてくれ。」
 と答えると、あわてて貯蔵庫らしき場所に向かってゆくのだった。
「・・・今の僕って、元の凉とは、違いすぎるのかなあ。」
 彼がいなくなってから、ポツンとつぶやく美咲に、耕太郎は辻野が行った先を目で追ったまま、
「全然違うぜ。元の凉は、従業員に敬語なんて使わなかったし、雰囲気もそんな柔らかな感じではなかった。
 けれどミーはミーなんだし、俺は元の凉のやり方を真似る必要はないと思うぞ。」
 と、さりげなく言ってくるのである。
「本当?耕太郎にそう言ってくれると、自信がつくよ。
 それ、凉も言っていたんだ。自分の生を生きてくれって。・・・でも実際、この状況は、両親には申し訳ない状況になってしまっているし、これで良かったんだろうかって、悩んでしまう時もあるんだ。」
「深く考えるな・・・。」
「そうだね。」
 と、ボソボソ話していると、材料を手に持った辻野がやってくる。
 全部ドサッと置いて、
「今から仕入にいかなきゃならないんで、私はここを離れなきゃならないんだが、大丈夫かい?」
 と、心配気にきいてくる辻野に、美咲はにっこり笑い、
「自分たちで食べるので、失敗しても大丈夫です。ねえ。こーたろー。」
 と、問いかけると、耕太郎は少し口元を膨らませ、
「・・妙な物は食いたくない・・。」
 と小さくつぶやく。そんな彼の様子に、ガッハッハと、笑った辻野は、
「・・まあ、なんとかなるさ。がんばりな。」
 と、一言言って立ち去ってゆく。
 残された二人は、ちょっとした沈黙の後。
「・・・さあ。やるよ。パン作りは、発酵やら、ベンチタイムがいるので、やたら時間かかるんだ。
 車椅子から材料をとるのは大変だし・・こーたろー。グラム数を言うから、計ってくれる?」
 美咲は腕まくりして、並べられた材料を指さして掛け声をかけると、耕太郎はうなづいた。
「オーケー。何から計る?」
「ますそうだね〜。強力粉かな?・・200gに。薄力粉100。砂糖30g。イースト菌5g・・。」
「ちょっと待てよ。そんな一度に計れるわけないじゃないか。」
 にわかに慌てだす耕太郎に、美咲はケラケラ笑う。
 そんな二人の姿に気が付いた厨房のスタッフが、チラホラ集まりだした。
 ちょうど、休憩時間だったようで、
「何やるの?」
 なんて、耕太郎に聞いてくる人がいる。
「ミルク?・・パンなんです。」
 目を白黒させて、必死に量りにかける手付きが、ぎこちない。モゴモゴ答える耕太郎に、
「一から作るのかい?そりゃ大変だ。・・・なんだったら、手伝おうか?」
 なんて、言ってくれる料理人がいたのだ。
「大変・・って、そうなんですか?」
 ポツリと小さく答える耕太郎の様子は、どうやってパンが出来上がるか、全く知らない様子だ。
 それは当然のような反応で、車椅子の美咲だって、力がはいらない状態で、生地を練る事を考えると難しすぎるだろう。
(そうだね。二人だけでするには、大変かも・・。)
 と、思った美咲は、
「お願いします。」
 と、即座に答えたのだった。耕太郎は手をとめて、ほっとした表情をした。
 それからの作業は、きわめて段取り良く進んでゆく。
 まずは牛乳と生クリームを、合わせて加熱した後に適温に冷やされ、粉と合わされて練られたそれは、みるみる柔らかい弾力のある生地に変化してゆく。
 湯をはったトレイに、生地を入れたボールを乗せて、発酵だ。
 耕太郎は厨房の人たちとは仲がいいらしい。彼の側に来て、みんなと親しげに話す様子は、一夜にしてできたものではない。
 その場に馴染んでいる耕太郎の姿を見ているうちに、彼は彼なりに河田家での生活があり、それなりに日常があったのではないか、とふいによぎった。
 そう思うと、なぜだか胸をかきむしりたくなるような焦燥感に襲われた。
(私のした事って、余計なことだった?)
 けれどあわてて、彼の健康のためにも、あの納屋暮らしは止めてよかったのだと自ら思い直す。
 そんなことを考えていたものだから、突然パシャリ。とシャッター音がしたので、びっくりすると、料理人の一人が、カメラを片手に美咲と耕太郎に向かい、ファインダーを覗いているのだ。
「・・・もう一枚、撮りますよ〜。」
 なんて、軽い調子で言われて、ひきつる笑顔を向ける美咲に、
「そんな不自然な笑顔じゃダメですね〜。」
 と、注文をつけてくる。戸惑った瞳で、耕太郎を見上げると、彼も困ったものだと、いう表情をして返してくる。
 けれども、カメラを持つ料理人に対して苦情を述べるわけでもなく、放任状態だ。 もう一人の料理人と雑談を始めるものだから、シャッターチャンスどころではないだろう。
 けれどもカメラ小僧と化した料理人は、無視されても、自分なりに気に入ったシーンを見つけて、パシャパシャやっている。
 ひょっとしなくても、こんな風景は、日常茶飯事のような雰囲気なのかもしれない。
 慣れない美咲は、戸惑ったままだったが。
 そんなこんなで、ベンチタイムも終わり、オーブンで焼いて、扉を開いて出てきたミルクパンは・・。
 大成功だった。
「おいしそう〜。」
 みんなで歓声をあげて、出来上がったパンは、待てすにその場で等分された。
「頂きまーす。」
 かけ声とともに、パンを一口食べてみて・・・。
(やっぱりおいしいー。成功だあ!)
 思うのと同時に、口の中に広がる馴染みのある芳醇な香りは、ある事を連想させられた。
 怒涛のごとく、よみがえってくる。
 かつて、美咲が住んでいた家の事を。
 エプロンをして粉をこねる母がいる。パンを作る日は、だいたい雨の日が多かったように思う。しっとりと湿った空気に、パンの焼ける香ばしい匂い。かすかに聞こえてくる雨の音。
 兄が帰ってきた時などは、あっという間になくなってしまうパン。
 決して贅沢な環境ではなかった。
 電化製品も、壊れるまで使われていたし、新しい服なども、めったに買ってくれることもなかった。父の乗る車も、もちろん中古で購入し、長い間乗り回されていた・・・
 けれど、家族はいつも一緒で、笑顔が絶えなかったのだ。
 喧嘩もした。一緒に笑い、共に悩んで泣いた。
 柔らかな空気に包まれた生活が、こんな形でなくなってしまうなんて思いもしなかったのだ。
 あっという間に当時の事を、思い出した美咲の心は広がりを見せ、翻弄する。
 平静でいられるわけがなかった。
 こらえようとするも、涙があふれ出てくる。
 大粒の涙をぽろぽろ流す美咲を見て、耕太郎は動揺して
「ど・・どうしたんだよ。」
 と、肩を抱いてくるのを、美咲は首を振り、
「自分の・・部屋に・・帰る・。」
 と言うのが精一杯だった。料理人達も、凉の異変にどう対処していいのか分らず戸惑った顔で見守っていた。
「すみません。後で片付けにきますので・・。」
 と、料理人の一人に言っておいた耕太郎は、顔を覆ってうずくまってしまった美咲を、隠すかのようにすばやく厨房を後にする。
 エレベーターに乗り込み、凉の部屋に戻ると、
「ミー。どうしたんだよ。」
 と、困った顔で聞く耕太郎の腕を、美咲は激した感情そのままにつかんだ。
「!」
 びっくりする耕太郎に構わず、美咲は「わー!」と、泣き声をあげる。
 母の優しい笑顔。柔らかな声。美咲が居心地良く生活出来るように、配置された小物の数々・・。
「お母さん・・。逢いたいよう・・。」
 絞り出すようにして、思わず呟いてしまう美咲の言葉を、聞いた耕太郎の表情が凍りついた。
「お母さんって・・。ミー・・・いるのか?」
 耕太郎の言葉に、美咲はハッとなって、我に返らざるを得ないほどだった。それほど彼の声色は低く、切羽詰まったものがあったのだ。
 恐る恐る顔があげると、美咲には伺うことのできないくらい、複雑な表情で見つめてきている彼の瞳にぶち当たる。
「・・・お母さんは生きているのか?」
 言い方を変えてもう一度、同じ内容の質問をする彼の強い視線から、離すことができない。
「生きているよ。・・元気なはずだよ。
 今は会っていないから・・どうなっているか分んない・・。」
「ミー、お前の本名は何だ?」
 嗚咽をこらえて答える美咲に、なを聞いてくる。
 とっさに言葉が出なかった。







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