第四章
『失くした鍵』第2話(下)






「・・・おにいちゃん?お名前なんて言うの?」
 妹の名前は、瑠香(るか)といった。彼女は子供ながらに、妖しい魅力を持っていた少女だった。
(俺に声をかけるなよ。)
 当主の跡取り息子の自負のあった凉は、彼女の問いかけを無視してしまう。
 事情のある親子に関わるな。と、母に言われていたせいも、あったからかも知れない。
 招かざる客とは、さらさらコミュニケーションをとる必要はない筈で、見事に無視を決め込む凉に、瑠香は小首をかしげ、
「今の聞こえないの?お兄ちゃん。お名前はなあーんていうのー?」
 と、今度は大きな声で話しかけてくるのである。
(なんなんだ?こいつ・・。)
 眉をひそめて、凉は瑠香を冷たい視線で見つめなおし、相手にもはっきり分かるように、プイっと視線を外した。
 これで、どんな鈍感な相手でも、自分は”招かざる客”だと気づくはずだろう。
 そう思った凉だったが、瑠香に対してはそんな認識は通用しなかった。
 いや、初めての時だけは、とても有効な手段だった。
 不思議そうに立ちすくむ瑠香を残して、その場を立ち去れば、よかったのだから。
 けれど、次の日の朝、食堂に姿を現した例の一家が、すでに食事を始めている凉に
「おはようございます。」
 と、挨拶してくるのだけは、無視を決め込むのも礼に反する。
「おはようございます。」
 と、そっけなく答えて食事をすすめる凉に、目を輝かせて瑠香が近づいてくる。
「お兄ちゃん!お名前『リョウ』って言うんだって?」
 と、満面の笑みで問いかけてくるのだ。凉は、あっ気にとられてフォークをとり落としてしまった。
「瑠香!やめなさい。凉くんは、お食事中でしょう。ごめんなさいね・・・。」
 申し訳なさそうに話しかけてくる瑠香の母親・・・河田裕子に、
「お名前の話をしただけだよ?なぜやめなきゃいけないの?」
 と、たたみかけてゆく瑠香を、
(空気の読めない奴。)
 と、一蹴して食欲をそがれた凉は、その後食べる気がしなくなって、食堂を後にした。
 そして、昼前に階段の前で鉢合せになった彼ら・・・この時は、耕太郎と瑠香の二人だけだった。
 凉は2階に住み、彼らは1階の書生室をあてがわれていたので、偶然顔を合わせたのだ・・には、今度こそ無視を決め込もうと、口を引き結ぶ凉に、瑠香はまたしても微笑みかけてくる。
「凉クン。また会ったね。」
 と話しかけてくるのに、今度こそはっきり言ってやろうと、口を開ける凉に先んじて、耕太郎の方が、
「瑠香とは話したくないみたいなんだから。あきらめろ。」
 と言い、瑠香が首をかしげるのを、知らぬ顔をして階段を上がってゆく。
 次の日に彼女に会ったのは、夕方だった。
 習い事から帰宅した凉は、庭の中でたたずむ瑠香を見かけて、足を止めてしまう。
 落ち葉が舞い落ちる庭の中で、彼女は一人で空を見上げ、立っていた。
 夕陽に照らされた彼女の全身は、淡く光っていた。
 ヒラヒラ舞い落ちる葉に覆われた瑠香は、一種荘厳な雰囲気さえたたえ、まるで一枚の絵を見ているような緊張感が漂っていた。
 視線を感じたらしい。ゆったりと、瑠香は凉の方に頭を下げて、顔を向けてくる。
 その時の彼女の瞳・・・。
 何の色も見えず、うかがうことの出来ない瞳の色に、人外のものが見えた。
 ボー立ちになって動けずにいる凉の目前で、彼女の瞳の色が変化する。
 光が戻り、凉の姿に焦点が合い、歓喜の感情が浮かび上がる。
「リョウくん!」
 口を開けて彼女は叫び、凉に飛びついて来た。
 思わず瑠香の体を受け止めてしまった凉は、自分の腕の中で顔をあげた彼女の瞳の、あまりに純朴なそのままの感情を見てしまう。
 凉の中で、頑なになっていた部分がはじけ飛んでしまった。
 瑠香の純真な気持ちに答えたいと思い、そうする事に、何が悪いことがあるのだという思いが加わって、凉は初めて彼女に対して口を開いていた。
「何をしている?」
 と。瑠香は、歓喜の表情そのままで、
「お空と、お話していたの。」
 と、答える言葉を、凉は変には思わなかった。あんな瞳で空を見上げていたら、本当に会話がなりたっているようにも思えたのだ。
「何の話をしていたんだ?」
 さらに質問する凉に、彼女は少し首をかしげ、
「それは・・・。わかんない。」
 と、言葉にできないとばかりに、ニッコリ笑みを浮かべて言って来る。
「・・・わかんない・・か。」
 思わず肩を落とす凉の腕の中で、
「あっ、葉っぱ!」
 と、彼女は叫び、空をジッと見上げてゆくのである。
 凉の腕の中で、みるみる瑠香の瞳の色が変わる。
 感情が消え去り、人智を超えたものと、それこそ対話をしているかのようだった。
 彼女だけの世界。彼女のみが見えている世界を、なぜだかその時凉は感じる事が出来た。
 そして、その世界をとても不思議に思った。知りたいと、思ったのだ。
 けれど彼女の瞳は、凉の姿を映すことなく、再び声をかけてこちらの世界に引き戻すのも、なんだか悪い気もした。
 ジッと見つめていると、瑠香は凉の腕の中から離れて、フラフラとまた先程いた落ち葉がたっぷりと、降り注ぐ庭の中に入ってゆくのである。
 まるで妖精の様だった。
 凉は彼女の後姿をジッと見つめ、従業員に呼びとめられて初めてハッとなり、あわてて屋敷に戻って行く。
(いつまで見ているんだろう・・。)
 ひょっとしなくても、誰かが呼びに来るまでそこに立っているのではないか?
 そんな風に思って、不思議な感じを覚えたのだった。
 その後、凉はもう瑠香達に、無視を決め込まなくなった。
 いや、彼自身気が付かないくらいに、不思議な雰囲気をまとう彼女に、魅せられてしまったのだ。




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