第二章
『家に戻る』第3話





「リョウくーん。今日のお勉強、いつ終わるの?」
 凉が瑠香の問いかけに答えるようになってから、1ヵ月あまりたったある日のこと。
 ドアから首だけ出して問いかけてくる。
「もうそろそろだ。いつもの木の下で待っていてくれ。」
 答えると、瑠香はニッコリ笑って姿を消す。
 明日はテストで、習い事もない。いつも勉強づくしの凉にとっては、おさらい程度に試験範囲を復習するだけでよく、楽な夕方だった。
 ペラペラと、教科書とノートを見くらべて、だいたいの見当をつけると、
「ふあ〜。」
 と、あくび一つし、伸びをした時、ドアをノックする音がした。
(だれだろう?)
 ドアをノックするのは、メイドくらいなものだった。
 大抵食事の時間になっても食堂に降りてこない凉を、呼びに来たりする程度で、その件なら時間が早すぎる。
「どうぞ。」
 凉が答えるとドアが開き、入ってきたのは母だった。
「お母様!」
 一瞬のけぞり、ただちに体勢を整えた凉がつぶやくと、彼女はスルスルと、滑らかに動いて、ゆったり凉に近づいてくる。
「凉。勉強の方はどう?進んでいて?」
 と聞いてくる母に、凉はコクンとうなづき、
「試験の前日なんかは、あえて詰め込まないようにしてるんです。
 ・・・ところで、どうしたのですか?お母様がこんな所にくるなんて珍しい。」
 と、首をかしげて問いかける凉に、彼女はあくまで余裕の表情で、うなずき返した。
「そうね。前日は勉強よりも、睡眠をとっておかなくちゃいけないわね。」
 言ってから、次の言葉は言いにくそうに、彼女は続けてゆく。
「・・・凉。ちょっと小耳に挟んだのだけれど、瑠香と、時々遊んでいるんですって?」
(?)
 母の声色に、なんとなしにでも不協和音を感じて不思議に感じ、凉が首をかしげると、母の瞳が鋭く光った。
「あなたは、私の信頼を裏切ることはないと、思っているわよ。
 この私が手塩にかけて育ててきたんだから、間違いはあるわけがないとは思う。
 けれど・・・あなたはまだまだ子供。あの娘も子供よ、凉。
 そこの所、よく分かっていなければ、いけない。」
 ささやくようにつぶやいてくる母の調子は、有無を言わさない強さを伴っていた。
 けれど凉には、母が何のことを言っているのかがわからない。
「お母様?」
 瞳を泳がせ凉がつぶやくと、彼女はフッと視線を和らげ、
「杞憂だったようね。でもね、あなたも来年はもう中学生でしょう。
 年下でも女の子と二人で遊んではいけないわね。
 変な誤解をする人もいるし、実際間違いもあったら大変なくらいは分かってくれるわよね。」
(あの娘は裕子の娘なのだから・・。)
 小さく最後につぶやいた言葉は、凉には聞かせるつもりはなかったようだ。けれども、耳にはいってきてしまい、
「裕子の娘って何です?」
 と、無邪気に疑問を口にする凉に、母はごまかしの笑みを浮かべて、
「何でもないわ。とにかく、あの娘と二人で遊ぶのはやめなさい。
 従業員の間でも、噂になっているみたいなのだから。次期の河田家の当主としての、自覚を持ちなさい。
 そうすれば、節度ある行動をとれるはず。」
 と、判決文と読み上げるように凉に言い渡した彼女には、
「は・・い。」
 と、返事せざるをえなかった。そんな榛に母は、満足げにうなづき、
「では、私は戻るわ。凉。勉強頑張って。」
 と、一人でまくしたてると、部屋を後にするのだった。
 残った凉は、後味の悪い気分で、しばらくはその場でジッとしていた。
(なぜ瑠香と会うのがダメなんだろう・・?)
 納得いかなかった。けれど、母はさすがに何の事情もなしに、凉に強制する人ではない。
 凉にはよく分らなかったなりにも、それなりに理由があるのは、さっきの母の言葉から察せられた。だから、
(もう、瑠香とは会えない。)
 心の中でつぶやき、自分で納得したつもりでいても、感情が異議を唱えていた。
(いつもなら、お母様の言うことに、納得できない事なんてないのに・・。)
 不思議な感情の波に戸惑うものを感じながらも、凉は母の言った事には従った。瑠香と待ち合わせをしていた、いつもの木の下には向かわなかったのだった。
 早めの夕食をとり、またテストの復習をした後は、明日に向けて、ぬるめのお湯にゆったり浸かる。
 そろそろ寝ようと思い、ホットミルクを飲んで、ソファでくつろいでいた凉の部屋のドアが、いきなり乱暴に開いたのだから、びっくりしてしまう。
 入ってきたのは、耕太郎だった。
 彼はさっきまで外に出ていたようだ。外の冷気に当てられ赤らんだ頬で、いらだちもあらわに肩で息をしていた。
 パジャマに着替え、リラックスしていた表情の凉を、耕太郎はチラッと確認すると、ものすごい形相でにらみつけた。
「木の下に行かないのなら、なぜちゃんと瑠香に伝えない・・。」
 冷たく言われても、ピンとこなかった。そんな凉の様子に、耕太郎がチッと軽く舌うちすると、
「・・・瑠香は、今も木の下で待っているんだ。」
 と、暗い瞳で言って来るのだ。凉の口がポカーンと開ききってしまった。
 首を振って、
「まだ外にいるのか?・・・嘘だろう?
 だいたい、ある程度待っていて来なかったら、屋敷に戻らないか?
 瑠香と待ち合わせしたのは、夕食前だったんだぜ?。
 食事はどうしてるんだよ。」
 と、言いつのる凉に、耕太郎は絶望の視線で、首を横に振る。
「瑠香は夕食を食べていない。
 ・・・なるたけこの事を、言いたくはなかったんだが、瑠香の中ではお前と遊ぶのは、最重要の項目になっているらしくてよ。
 この件に関しては、俺の言うことは耳に入らなくなっているんだ
 ちゃんと、凉さんの口から、瑠香に今日は中止になったと言ってくれないか。」
 いつもは凉に話しかけようともせず、屋敷内では孤高の人になっている耕太郎が、困りはていた。頼み込むようにして、話しかけてくる彼の表情に、凉は理解を超えたものを感じ、
「わかった。木の下に瑠香はいるんだな。部屋に戻るように言うよ。」
 言って凉は立ち上がり、二人して庭にある、瑠香のお気に入りの木の下に向かってゆく。
 耕太郎が言ったとおり、瑠香は木の下で待っていた。
 葉をすっかり散らして、枝だけになっている木の下で、彼女は以前見たように空を見上げ、スクッと立っていた。
「・・・!」
 景色の一部分と化した瑠香の姿に、ボー然と立ちつくす凉は、背中を押されてハッとなり、
「瑠香・・。」
 と、恐る恐る話しかけても、返事がない。狼狽して後ろを向く凉に、耕太郎は暗い顔で首を横に振る。
「もっと大きな声で。」
 ささやく耕太郎の言葉に、凉はうなずき、今度ははっきり大きな声で
「瑠香!」
 と、叫ぶように訴えて初めて、彼女の体がピクッと震える。
 ゆったりと凉達の方に向いた瑠香の瞳は、前と同じ瞳の色だった。
 何も映し出さない。感情の消えた色・・。
 けれども、一瞬でクルリと感情の反転がおき、いつもの瑠香の瞳にもどった。
 背後にいた耕太郎が安堵する吐息を吐く。
 瑠香はみるみる歓喜の表情を浮かべ、ニッコリ笑い、
「リョウくん!」
 と、小さく叫ぶとダダーと走り出して、凉の腕の中に飛び込んでくるのだ。
 思わず受け止めた凉の腕の中で、キラキラ光る瞳で見上げ、息をする小さな生き物がいた。
 その命の躍動感を感じた時に、ゾゾゾと背筋が寒くなるような不思議な感覚が浮かんだ。
 凉は理解を超えた心のゆらぎに動揺を覚え、なんとかしようとして、瑠香の体をきつく抱き締めると、彼女は、
「苦しい・・。」
 とうめいた後で、
「勉強終わった?」
 と聞いてくるのである。
 彼女の小さな体は、冷気にさらされて冷え切っていた。
「勉強終わったって・・。」
 今、何時だとおもっているんだよ。
 狼狽して耕太郎を見ると、彼はそれについては疑問を抱くな、とばかりに首を振ってくる。
「瑠香・・もう遅いぞ。家に帰って寝ないといけない時間だ。」
 耕太郎が静かに言うと、初めて彼女は空を見上げ、
「本当だ。お空が暗い。」
 と言って、キャッキャと笑い出すのである。瑠香の無邪気な笑顔を、無表情で見つめた耕太郎が、凉を見る。
(?)
 ぼんやり彼の顔を見ていた凉は、ハッとなって向きなおり
「瑠香、遊びは中止になってしまったんだ。家に戻ろう。」
 と、耕太郎と同じように静かなトーンで話しかけると、彼女は首をかしげて
「中止になっちゃったの?」
 と、口を尖がらせて凉に聞いてくるのだ。
(時間の観念がなくなっている・・。)
 心の中で、はっきりそう思うものの、ゆったりそのことについて考えている所ではない。
「あぁそうだ。屋敷に帰ろう。」
 凉が無理に笑みを浮かべて話すと、彼女は少し考え込み、わかったとばかりにコクッとうなづき、
「お腹すいた。」
 とつぶやくのだ。
「お母さんが、ご飯をパックにつめて待っているぞ。」
 耕太郎が瑠香の頭をポンとたたいて言うと、彼女は凉の腕から離れて今度は兄の腕をとった。
「瑠香。ご飯食べるわ。」
 それを合図に三人は屋敷に戻る。
 いつもと変わらぬ無邪気な瑠香と、注意深く言葉をかける耕太郎を見ながら、
(瑠香はおかしい。変だ。)
 明らかに常人とはちがう。
 と、感じざるを得ない凉の疑問を、耕太郎は敏感に察していたようだ。
「ちょっと待っていてくれないか?」
 と、自分たちの部屋の前まで来ると、彼は小さくささやいてドアを開けた。そして、瑠香を中に入れ母親に預けたらしい。すぐさま廊下に出てくる。
「お前の部屋、いいか?」
 小さくつぶやく耕太郎の表情は硬い。
「あぁ、かまわないぞ。」
 凉はうなずき、二人して一階上の、凉の部屋に入ってゆく。
「・・・水でも飲むか?」
 凉の部屋に入ってきても、深刻な顔で立ち尽くす彼の顔を、見かねて問いかけるのだが、耕太郎は首を縦にはふらない。
 少しの沈黙の後、
「・・・瑠香のことは・・・見ていてわかるだろう?
 ごく軽いものなんだが、障害を持っているんだ。医者に言わせると、軽度の自閉症らしい・・・。」
 言った耕太郎の暗い瞳。
「知的障害も少しは入っているらしいんだ。
 自閉の症状は、人によって違うんだが、瑠香の場合、愛想がいいように見えてコミュニケーションがとりずらい。そして、これと決めた人とは一方的に接触をとってゆくんだ。
 例の木の下など、特定の場所へのこだわりも強い・・・。」
 初めて聞いた障害と、やけに冷静に客観的に話す彼の言葉のギャップに、凉は戸惑わざるをえない。
「自閉症に知的障害だなんて・・。」
 気がつかなかった・・。
 小さくささやく凉に、耕太郎はフッと笑みをもらした。
「瑠香の場合、軽いもんだからな、パッと見いはわからないんだ。付き合っているうちに、やっぱりどこかが違うって、気付く人はいる。
 環境が変わって、どうなる事かと思ったんだが、学校の先生や同級生達の理解のおかげで、妹は安定した生活を送らせて貰っているよ。
 凉さんもある程度は知っているとは思っていたんだが・・。」
「知らなかった・・・コミュニケーションが取りづらいだの、そんな事思いもしなかったぞ。」
 首を傾げていう凉に、耕太郎は目を見開いた。そして息をのみ、大きくのけぞって、
「わからないで今まで付き合っていたのか?」
 と、うめくのである。オーバーなくらいの彼のアクションに、凉はうろたえ、
「いや、木の下でジッと突っ立っている姿は、不思議には見えてはいた。
 だけど、障害を持っているようには、全然見えなかったんだ。」
 言いながら、初めて木の下で立っている瑠香に気付いた時の、荘厳にも見えた彼女の雰囲気を思い出していた。
 表情がなくなった彼女の瞳。『空とお話してるの。』と、彼女が言った声色。
 彼女しか見えない、明らかに違う世界を、凉は見たいと思った。惹かれるものさえ感じたのだ。
 それは、障害を持ったがゆえに、見える彼女の世界なのだ。と思った時、凉の中でストンと、ふに落ちるように納得できたのだった。
「そうだったんだ・・。」
 と、一人納得して笑みを浮かべた凉の表情を見た耕太郎が、また目を見開き、
「なにがそうだったんだ?」
 と聞いてくるのを、凉は何気なしにも、
「だからなんだと思ったんだ。
 瑠香にしか見えない世界があるんだとは思っていたんだ。」
 と言った時、みるみる耕太郎の瞳の色が変わる。
「そう思ったのか?」
 と、聞いてくるのである。
「そう思うも何も・・・俺にはそう見えた。」
 知りたいと思うくらいだった。
 小さくつぶやいた凉の言葉が耳に入ったらしい。耕太郎は息を吸い込み、称賛のこもった目で凉を見つめると
「瑠香の世界に気付いてやれる人は、そうそういないんだ。瑠香は凉君のそうゆう所を気付いていたんだな。
 瑠香の事を、頼むよ。一緒にあいつの世界を見てやってくれ。」
 と、勢い込んで言って、凉の肩をポンポン叩くと耕太郎は、手元の時計を見て、「おっと、こんな時間だ。」とつぶやくと「じゃあな。」と、一方的に手を振って部屋を出て行ってしまうのである。
「・・・・。」
(お母様に、瑠香と会うなって言われてるんだけど・・。)
 ポツンと残された凉は、なんとも言えない気分でその場に立ちつくすしかなかったのだった。
「瑠香を頼むよだなんて・・・無理だよ。」
 ため息一つつき、そのままベットに入った凉は、今日の耕太郎の話した言葉の数々を思い返していた。
 同時に彼の意外に優しい一面を目にして『結構いい奴なんだ。』と思ったのだった。
 そこで、ある事を思い立ち、凉はベッドの中でニヤッと笑みをもらす。
(瑠香だけで会うからダメなんだ。耕太郎も一緒に遊ぶ分には、さすがのお母様も何も言わないはず。)
 その考えは、とてもいいように思えた。
 凉はその後、瑠香だけでは会わず、耕太郎も交えた三人で遊ぶようにしたのだった。




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