第四章
『失くした鍵』第2話(上)
・・・・体が熱っぽい。
『ままぁー。』
広い部屋でたった一人、朦朧となる意識の中で、幼い凉は母を呼んでいた。
『・・・どうしたの。こんな所まできて。
風邪は時間がたつと、治るんだから、おとなしくしていなさい。
あぁいやだ。今は選挙で、お父様は大事な時期なのよ。風邪がうつったらどうするの。自分の部屋に戻りなさい。』
『あなたは弱い子ね。気合いが入っていないから、すぐ体の調子を崩すのよ。
河田家の跡取りが、そんなじぁ先が思いやられるわ。』
眉をひそめ、側に寄ってくるなと言わんばかりに冷たい母の声。
大好きな母の庇護を求めた凉に、たたみかけられた言葉の数々・・。
・・・・・河田家で、すごした日々・・。
瀟洒なたたずまいの洋館。うっそうとしげる木々。
凉は一人で遊ぶ。
あふれんばかりにたくさんのおもちゃ。
体が弱かったせいか、めったに外に出ることはなかった。
小学校にはいってからも、休みがちな凉に用意されたのは、専属の家庭教師だった。
彼らが側に付き、英才教育と言っていいほど、みっちり学問を叩きこまれた。
凉は必死に努力した。
『おかあさま。僕がんばったよ。ほら100点!』
学校のテストの結果を母に報告するが、彼女は笑顔を浮かべなかった。。
『学校の成績を基準にしてどうするの。
私は、あなたこそ、将来日本を背負ってゆける程の、大人物に育ってほしいと思っているのよ。
出来るかしら?』
・・・・・漢字を他の子達よりたくさん覚えても、ピアノが何とか弾けるようになっても、英語のスペルを覚えても、フランス語を勉強しても・・・。
『まだまだダメね。』だった。
・・・・・『ダメな子』
凉の心の奥底に、澱のように淀んで溜まっている負の意識のほとんどは、母親が発した何気ない一言から始まっていた。
不在がちの父は、ほとんど家にはいない。
いたらいたで、父と母とはよく喧嘩していた。
元々、結婚当初からうまくいかない二人だったのだ。
旧華族を先祖に持つ、由緒ある家柄から嫁してきた吉田寛子という人物には、添いたい男性がいた。
体格も、惚れぼれするほど立派な偉丈夫の男性だったらしい。
けれども、本人の願いも叶わず、河田の家に嫁いだ彼女は、河田の両親の前でこそ、愛想のいい笑顔を浮かべるものの、二人になれば、本性をむき出しにした。
そもそも大柄で、高い身長に育ってしまった深窓の令嬢は、自分の体型に、とてつもないコンプレックスを抱いていたのだ。
女性に生まれて、恵まれない容姿を親姉妹に散々たたかれてきた彼女は、河田榛の姿形が気に入らなかった。
女性顔負けに綺麗な相貌が隣に立つと、悲惨な状況だ。
女性そのものの自分よりも美しく、きらびやかな雰囲気をまとっている男を、引き立てるだけの惨めな存在になり果てているのを、イヤでも気付かされるハメにもなり、それが夫に対する劣等感にも繋がってゆく。
無表情の裏で、暗い警戒心を秘めて毎日を過ごす彼女を、さらに苛立ちへといざなってくれるのが、夫・・榛の低い身長だった。
寛子と榛は、並んで立つと、ほぼ一緒の身長なのである。
初めて知ったのは、婚約の儀の時。
美しすぎる男性の姿形にガク然となると同時に、目線が同じであるのを確認した時、これはダメだと思った。
けれども、断る正当な理由が思いつかないままに、ズルズルと結婚へと、進んでしまったのだった。
結局寝所を共にする段になって、晴れて夫になってしまった榛が、当たり前のように事を進めてくる手を振り払い、
「あなた、間違えて生まれてきたんじゃございません事?」
なんて事を彼に言って、寂しい笑顔を浮かべさせたツワモノだったのだ。
そんな寛子だったが、後継ぎを生めたのは、奇跡としかいいようがない。
生んだ後は、役目が終わったとばかりに、気が進まない。の一言で、夫=榛からの誘いを断ってしまうのだ。
それよりも・・・。
「なぜ参議院どまりで納まっておしまいになるの?
吉田の家をバックにすれば、衆議院出馬も夢もございませんわ。こんなどうでもいい仕事に熱中されるより、国作りに参加なさって、国を変える大人物を目標になさってみればどうなのです?
それでこそ、男の中の男ですわ。」
愛らしい見た目を、当てつけた上で、とんでもない要望を夫に押し付け、首を縦にふらない彼の様子に、寛子は腹を立てた。
そうやって、夫婦の仲はお互いの気持ちに添えぬままに、急激に冷めていって・・。
そんな夫婦の事情なんてものを、凉にはわからない。
ただ両親の間にある、明らかな溝には気付いていて、凉なりに夫婦仲良くなってほしいと努力していた。
父も母も大好きだったから。
凉は、父からの愛情も、母からの不器用な愛情をも感じていたから。
夫婦が不仲であっても、凉は家族三人が笑って過ごしてほしいと、願っていた。彼らの前では、子供ながらに愛嬌をふったりしたのだ。
そんな事をしても、父と母の溝は埋まるわけもなく、夫への希望を捨てた母から、世界に通用する政治家になるべく、過剰なほどの圧力をうけ・・・。。
そして、彼女から何気なくかけられた言葉の数々が・・・。
『そんな事で、どうするの。』
だった。
『ただでさえ、覚えが悪いのだから、努力を積み上げるしかないのよ。普通の人と同じような努力で納まっていれば、お父さまのように、頭打ちになってしまうのよ。』
・・・河田グループを背負う河田榛を、悪し様に言うのは、この人しかいないかも知れない。
けれど、子供には言うべきではない言葉を、寛子は何度もたたみかけていた。
『とてもじゃないわね。・・・先が思いやられるわ・・・・。』
そして、愛情を求める凉の腕を、振りほどいていた。
必死に頑張って、母に認めてもらおうと努力する凉に注がれる言葉達が、
『こんな事も、できないの?』
・・・・だった。
母親から条件付きの愛情だけを、与えられ続けた少年は・・・。
いつしか笑わない子供になっていた。
勉強ばかりする毎日。
小学校の高学年になってからは、不思議に体は元気になった。風邪もあまりひかなくなり、機械のように際限なく組まれる日程をこなせるようにはなった。
感情の起伏のない生活の中でも、唯一凉の心を揺さぶるのは母だった。
どんな母親であっても、子供にとっての母は至高な存在だ。
忙しくて家にほとんどいなかった父とは、たまに話をする程度で、側にいる時間がどちらかと言えば寛子お母様の方が多かった凉は、彼女の愛情をたくさん受けて育つべき時期に、条件付きの情を押しつけられてきた。
それでも、母の愛を求めてやまないのが子供なのだ。
彼女の愛情を求めるものの、河田家を取り仕切る彼女は忙しく、寂しい思いだけが残った。
母に『ダメな子』『役にたたない子』と言われないためにも。いつ見捨てられるか分らない恐怖を抱えて、緊張感の高い生活を送っていた。
・・・・そんなある日。
三人の家族がやってきたのだった。
彼らは父の弟・・凉からすると叔父・聡(さとし)・・が、ガンで亡くなったために、寄り所がなくなり、河田家に居候するようになった三人だった。
夫の死にショックを受け、抜け殻のようになってしまった母親と、子供二人の兄と妹。
兄は耕太郎だった。当時の彼は、母と妹を守るかのように、河田家の面々の矢面に立ち、猟犬のように敵意をむき出しにしていた。
それとは対照的なのは、2.3歳幼い妹で、彼女の手には、手編みの人形がしっかり抱かれていて、天真爛漫な笑顔で周囲に語りかけていた。
凉の人生が、彼らによってガラリと変わってしまうなんて、初めて会った時は、思いもしない・・・。
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