第四章
『失くした鍵』第4話







 ・・・・彼らと三人で過ごした時間たち。
 例の木の下は、彼らとたわいのない会話を楽しむ場所と化した。
 耕太郎とも意外にもウマが合い、凉は時間があまると、彼らの部屋に入り浸るようになっていった。
 自然、耕太郎と瑠香の母親とも話す機会ができるようになる。
 彼らの母親・・・裕子は、凉の母とはだいぶ違ったタイプの女性だった。
 母のように特徴が際立った厳格な厳しさはなく、地味でどこにでもいるような緊張感を感じさせない女性に見えたのだが、かえってそれが不思議と居心地がいい。
 河田家にいるうちに、夫を失ったショックからは、何とか立ち直ったようにみえた。
 控え目でいて、シンの強そうなところは耕太郎となんとなく似たものを感じさせたのだった。
 そして、彼女の子供達に対する愛情表現の仕方が、凉の母親とあまりに違うのに、ショックに似た衝撃を受けるのである。
 裕子は、決して子供にはダメ出しの言葉を発しなかった。
 軽いとはいえ、障害を持ち、他の子供達とは同じように出来ない瑠香の姿を、そのまま認めていた。
 彼女の出来ることをのばしてゆこうとする姿勢を見て、凉は心の底から震えるくらいの感動を覚えた。
 同時に彼女に対して、憧憬ともいえるような思いまで抱くまでになる。
 耕太郎と瑠香と、彼らの母とすごした日々が、凉の中で唯一ともいえる、安らぎの時間だった。
 同い年の耕太郎は、運動神経抜群で、いい感じのライバルとして、凉の側に存在し、無条件の愛情を示してくる瑠香は、凉の戸惑いがちで不器用な愛情を、しっかり受け止めてくれたから。
 十四年しかない彼の人生の中で、淡く優しげに光り輝いている記憶のかけら達・・・。
 いつしか凉は、笑うことのできる子供になっていた。
 際限なく続く習い事の合間に、耕太郎達と木登りしたり、ゲームをしたり、プロレス技をかけあったり・・。屋敷内を、三人で探検している途中、屋敷でメイドとして働く裕子に見つかって、こっぴどく叱られたり・・。




 ・・・・・河田家での、裕子達親子の位置付けは、不思議なものだった。
 叔父が亡くなったからとはいえ、河田の性を名乗るからには、彼等にもそれ相応の待遇があってもいいはずだった。
 けれども彼等は、河田の者扱いされなかった。
 裕子はメイドの服を着用し、河田の家で働いていたのだ。
 不思議に思った凉が耕太郎に聞くと理由は簡単だった。
 生前、会社を経営していた耕太郎の父(聡)が、病気を患ったことで、たちまち資金面で立ち行かなくなり、多額の負債を抱えてしまっていたらしいのである。
 仕事ではノータッチだった裕子には、どうする事もできず、多額の負債は河田家が肩代わりする事によって、問題は解決されていたのだった。
 だから裕子は河田の家でメイドとして働いていた。
「母さん、ちょっとでも働いて、お父さんの借金を返してゆく。って言ってるんだ。
 ここにおいてもらうと、住む所と食事代がただだから、他の所で働くより、分がいいんだって。
 俺も働くって言っても聞いてくれなくって・・。」
 と、彼なりに母の事を心配するコメントが返ってきて納得した。
 負債をきちんと返そうとする所が、裕子らしい。なんて凉は思って頷いたのだった。
 けれども、大人の世界は簡単ではない。
 河田の性を名乗りながら働く、彼女への従業員達の風当たりが、キツイ現状を目の当たりにして、凉自身も何とか出来ないものかと頭を悩ませ、何もできない自分にガックリくるのだった。
 

「凉。友達は選ばなくてはいけなくてよ。あなたはもっとランクの高い子達と、交流を持つべきだわ。裕子の子供と遊ぶのはやめなさい。」
 母に、耕太郎とさえ遊ぶのを禁止された。
 初めて凉は
『耕太郎達はランクが低い子じゃないよ、ママ。そんな風に思うのはおかしいと思う。』
 と、言いかえしたのである。母は無言で凉の頬を平手打ちした。
 思いっきり叩かれたせいで、口の中が切れたらしい。血の味が口の中で広がり、一瞬クラッとなる凉の頭上から、
「あの女の味方をするのは、どういう事?謝りなさい!」
 と、母の怒声が上がる。ショックを受けて黙り込んでしまった凉に、さらに追い打ちをかけるかのように、二・三発殴りかかってくる。
「そんな反抗的な態度をとるのも、あの家族に関わったからだわ。だから私は反対したのよ。
 あの女と、聡さんて方は、学生時代に欲求を抑えきれずに婚姻届も出さないうちに妊娠した夫婦なのよ。
 あなたのお父様は、中途半端な施しを与えて自己満足すれば、それで終わりだけれど、そんなだらしのない夫婦から生まれた子供が、凉の教育上、どれだけ悪いか分かっていない。」
 鬼のような形相の表情で、凉を殴り続ける母は、普通ではなかった。
 凉は初めてみる母のそんな一面に、恐怖を感じ、うずくまって、ひたすら『ごめんなさい。』『ごめんなさい。』と謝り続けていた。
 メイド頭の田尻に見つかって、制止されるまで殴られ続け、後になってから、なぜ母に謝らなければならなかったのか、納得できない思いで一杯になり、悔しい思いをしたのである。




 そんなある日。
 明日のテストに向けて勉強していた凉は、どうもその夜はゆきづまってはかどらなかった。
 イライラするので、ちょっとした気分転換のつもりで、2,3日前に耕太郎と見つけた、とっておきの隠し部屋に向かって、歩いて行ったのだった。
 とっておきの隠し部屋とは、従業員達も知らないだろう。
 そこは屋根裏部屋だった。
 三階のリネン室の天井の一部は、開けることができていて、梯子を使えばその部屋に入ることができるのである。
 結構広くとってあって、装飾品や絨毯などは取り払われ、むき出しの床がのぞいていたが、少しの家具だけが、なぜか残っている。
 スプリングが壊れかけて、ギリギリ使える状態の木製のベットに、カウチソファとテーブル。洋服ダンスがあった。
 部屋の隅に置かれているそれは、センスよく凝った彫り物が施されてあり、かつてはここに住んでいた人達の憩いの場所だった片鱗を感じさせる。
 傾斜がかった天井には、星空も見れるように、窓がいくつも嵌め込まれてあった。
 凉達は、煤や雨風によって擦りガラス状態になってしまっている天井のガラスをふき清めた後は、埃にまみれた部屋をこっそり掃除し、三人の秘密基地にしたのだった。
(屋根の上から、空でも見よう。)
 思って凉は、低い方の窓を開けて、外にでる。
 窓の外は、小さな踊り場のようになっていた。
 人一人分はゆうに座れるようにはなっている。
 かつては囲いのようなものがあったのかも知れない。けれど、その部分は朽ち果てて、なくなってしまっていた。
 森のような庭に囲まれた屋敷には、虫の音が響き渡り、さまざまな生き物の息吹が凉に知らせてくれる。
 夜気はひんやりとして、鬱屈していた頭の中を、一気に清浄化してくれる心地がした。
「ふあー。」
 ゆったりリラックスして、そろそろ自分の部屋に戻ろうとして、顔を屋根裏部屋に向けた時、部屋の中に誰か入ってくる靴音がしたのだ。
(耕太郎?)
 思って、声をかけようとしするが、靴音は一人ではなかった。
 中は暗いので、はっきりとは分らなかったが、二人組らしい事ぐらいはわかった。
 背丈とシルエットが明らかに耕太郎と瑠香ではない。
(誰?)
 この部屋の存在を知っていたのは、自分たちだけではなかったのだ。
 体を硬直させて息をひそめる凉の存在には、彼らは、気付かなかったらしく、離れて立ちつくす二人組は、お互いを見つめる格好になり、
『榛さん。今日ははっきりお断りしようと思ってきたんです。』
 と、第一声を発したのは女性の声だった。
 少しハイスキーな、聞き覚えのある声で、凉の頭の中でその声の主は、河田裕子であると訴えてくる。
 榛とは、凉の父の名だった。榛という名は、従業員の中でもいないはずだった。
(父さんと裕子さん???)
 一瞬なぜ彼らが、こんな所に来るのか理解できない。頭が真っ白になる。
「榛さんが、私たち親子の事を、本当によく考えて下さっているのは、よくわかっています。
 けれど、私たちのためにマンションを用意してくれる話は、きっぱりお断りしなければいけないと思うんです。」
「そんなに頑なに考えなくてもいいんだよ。ここにいるのと、あそこに移るのと、そう変わらないはずだよ。君は河田の人間なんだから。遠慮なんかいらない・・。」
 言いつのる声はまぎれもなく父の声だった。
 父は裕子に手を差し出し、彼女の方へ近づいてゆくのだが、裕子のほうが後ずさった。
「いえ、本当なら別の所に住んで、肩代わりしていただいた負債を、返済してゆくべきだと思うくらいです。
 けれど、何のキャリアもなくて、女手一つで子供を育ててゆくのは、不安で・・・。そんなわけで、ここにいるのも、申し訳ないと思っているんです。榛さんのご厚意に感謝しているほど・・。」
「それ以上言わないで。なぜ僕の言うことが、耳に入らないんだ。」
 言った父は、まどろっこしげに父の影が首を振るのがわかり、いきなり裕子に近づいたかと思うと、ガバッと抱きしめてしまうのだ。
 もつれ合う二人は、切迫した雰囲気を持っていた
 まるで、ドラマの秘め事のように、二人の影が重なり合う。
 凉は、それこそ動けなくなってしまった。
 暗い月夜の明かりが、かすかに部屋の中を照らしていた。直視したくなくても、瞳孔が開いてしまっていた凉の瞳には、あってはならない、けれども切なげな二人の表情が。行為が、かすかに見えてしまうのだ。。
「お願い。・・優しくしないで・・。」
 消え入りそうにささやく裕子の声色は、今まで凉が聞いたことのないものだった。
 その声を聞いた時、凉の中で何かがはじけた。


 ・・・・すべてが終り、父の腕の中で裕子がひそやかにつぶやく。
「こんな事、もうヤメにしないと・・。」
 裕子の言葉を打ち消すかのように、父は彼女の唇を奪う。
 凉は見ていられなかった。




 彼らが屋根裏部屋を後にした後、自分の部屋に戻った凉は、ショックのあまり眠れなかった。
 凉の中にわきあがってきた思いは、とんでもないくらいの混乱した感情だった。
 同時に裕子への失望。父への怒りだ。
 先ほどみた映像が、フラッシュバックを起こしたように、何度も凉の瞳の奥で繰り返される。
 イヤだと思っても、湧き上がってくる映像と声はリアルすぎた。
 体の奥底で妙な感じで熱を持ってしまって、どうしようもなかった。
 戸惑っているうちに、息があがった。体の方が素直に反応する。
 下着を汚した罪悪感が相まって、それこそ凉はパニックを起こしてしまう。
 こんな感触、学校の友達同士でエロ本読んだり、こっそりビデオをみたりした時の感覚とは違いすぎたからだ。
 吐き気までもよおしてきて、凉は軽く吐いた。
 その夜は、勉強どころではなかった。屋根裏部屋に行ったことをつくづく後悔する。



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